ほわほわ神社生活

ほわほわ神社生活

神社が暮らしの中にあるおっさんのちょっとだけ変わった日常です。主に岡山県広島県の神社巡りをしています。神社巡りの記録や神社のことで思うことを書いています。

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御崎神社(岡山県総社市地頭片山183)

しばらく鳥居をくぐれなくなるなと思ってストックしていた神社巡り記事の最初のものです。8月いっぱいはダメなので間隔を10日ほどにしないと尽きてしまう。おんざき神社は5月中頃のお詣りで丸二か月以上経っているために記憶も曖昧になってしまいましたが、それでも紹介したい神社です。

 

 

目次

 

 

【御祭神】

 

素盞鳴命 大貴己命 少名彦名命

 

【御崎神社への道】

国道429号倉敷駅前東西の道)を約4キロほど北上した辺り、観光名所の備中国分寺の近くです。岡山県道270号との国分寺西交差点を右折すると国分寺ですが、一本下の道(西国街道=旧山陽道)を左折して400メートルくらい進んだ南側(左)にあります。注連柱の奥に見える緑の所です。

ちょっと説明が難しいのでナビ必須です。車一台やっとという道ではないのであまり心配しないで進めるはずです。駐在所のある小さな交差点にこんな案内標識がありますので注意して見てください。

北(総社市から)だと国分寺に行くつもりで走り、国分寺西交差点の次を右折することになります。北からの方が曲がる交差点がわかりやすいかもしれませんね。

【車椅子使用の方の為の情報】

こちらの神社は問題になるような段差のない車椅子の方に優しい神社です。少し段差のある個所には鉄板が敷かれて段差は解消されていました。

賽銭箱に自分でお賽銭を入れられる神社です。駐車場の表示はありませんが、境内空きスペースがそうなのだろうと思います。

参詣者はあまり奥まで入らず道からすぐの邪魔にならない辺りに駐車するのがいいのかなと思います。社務所にご神職が居られたら駐車場所の確認をすればよいかと。

 

 

 

【境内の様子】

御崎神社略記

御崎神社社頭

回廊(拝殿前から鳥居方向を)

拝殿

参拝方法説明版

本殿

境内の端から社殿の方を

境内を囲む堀と黄菖蒲?(社務所横)

掘(回廊途中から吉備考古館付近を)

回廊途中随身門左右の大臣

吉備国らしく備前焼狛ちゃん(高安関っぽくて見ていて飽きないです😅)

須賀神社

須賀神社由緒看板

解説板

橿原神宮遥拝所(伊勢神宮以外は少ないです)

一之御前大神(檜皮葺き境内社は時折しか目にしません)

吉備考古館

吉備考古館見学記 所在地岡山県総社市地頭片山(海風想というサイトの1ページです)

↑こちらのページでどんな博物館かわかります。

 

【おまいりをおえて】

最初に書いたように細かい所は忘れてしまったのですが、こちらの神社で特筆すべきことは本殿そばで感じる気の強さです。向かって右横、須賀神社との間辺りに来た途端、身体がじんじん痺れだしてボーッと何かに包まれたような感じになりました。大山祇神社でもそうなりましたけど、どこでもこうなるのではないです😮

 

備中国で流造でない檜皮葺きの本殿は珍しいと思います。妻入りでひさしが前にあるので春日造のように見えます。

 

記憶が確かなら、鳥居をくぐってすぐではなく歩くごとにどんどんすがすがしさを増す境内だったように思います(ちょっと自信がないです)。

 

社殿右方向に境内は広いのですが、どこも丁寧に掃き掃除された跡が残っていました。

変わっているのは落ち葉の処分が焼却に頼るのではなく堆肥(腐葉土)にされていること。なかなか面白い取り組みだと思いました。

用事で留守にしていない時には宮司さんはおられるようです。御朱印やお神札を受けることもできる神社です。赤いおみくじの販売機もあります。ひいて神様からのメッセージをいただくことも可能でしょう。

 

田舎の田んぼと住宅の点在する土地にあり、そこまで知られているわけでもないのか(平日午後ということもあるでしょうが)ずっと貸し切り状態でした。備中国分寺から東へ車でしばらく走った所には吉備津神社があり、さらにそこからすぐに吉備津彦神社があるためなのか。ゆっくりお参りして良い気をいただける神社なのでこちらにもお詣りすれば気に入ってもらえるだろうになと思いながらぶらぶらしていました😁

 

お詣りしてすがすがしい気持ちになって帰宅できるいい神社でした。

 

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先日変更したデザインは竹藪に囲まれたお稲荷様のイメージです😉

 

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備中国分寺周辺を自転車で巡る倉敷とことこ内のページです。総社駅から御崎神社や国分寺、そして吉備津、吉備津彦と神社巡り古墳巡りがイメージできます。

kuratoco.com

忘れ去られる前の最後のチャンス

神社の神々はその神社の勧請元と同じ名前なのでこれは時が過ぎても簡単にわかります。由緒看板や石碑に書かれている場合は調べるまでもありません。

 

稲荷神社なら、ご眷属はお狐様だなというのもわかります。

 

こうしたことは大丈夫なのですが、問題は追加で祀られた存在のことです。

 

集落にはその集落の歴史があり、言い伝えの形で神社のことを知ることができていました。それが完全に崩れたのは核家族化が進んだ平成時代だろうと思います。親から子へと継承されていないので知っている人が帰幽すればそれまでです。

 

神社なら神職が記録すればいいのではと思われるでしょう。そうした記録が残っている神社はいいのです。でも、自然災害や戦火などで失われた神社はいくらでもあります。今は兼務社が数十なんて神職も珍しくはない時代。とても手がまわらないでしょう。

 

こうした時も、神職以外の氏子も一人一人が集落、そしてご先祖様の歴史として話をちゃんと聴いていれば問題なく復活させられます。

知っている人達が自分以外の者も知っているからいちいち自分がすることもないと思うと黄信号点灯です。誰も他の誰がどこまで知っているか伝えているか知りません。気がつくと疑問に誰も答えられないことになるのです。

 

私も祖母から産土神境内社の方々のことを聞かされましたが不完全なものでした。その部分は偶然別の高齢者から(ふと思い出したようで)聴くことができました。

 

記紀神話の神々とは異なる民衆の祀る行為に関するもので、昔話でよくある類の話でした。

 

こういった存在が自分を祀ってほしいと言っているので一緒に祀ることにしたがどこかに書かれているわけではないと。

 

この場合には、それを知らないと誰も手を合わせることがなくなります。祀られているので勝手に離れるわけにもいかないその存在との関係は微妙なものになるでしょう。全国の小さな神社で人と神との分断が静かに進行しているように感じます。

 

今後求められるのはそうした忘れられた存在とコンタクトでき、祀りを正常化できる能力者だろうと思います。需要も供給もないから実際には廃社になるのでしょうけど。

 

明治生まれから聞いて育った世代も令和の間に器を出ていくことでしょう。神社が好きならどうか今のうちに産土様等知る人の少ない神社を残すために働いてください。私もこれからできるだけ聞き取りをしてひとつひとつかけがえのない神社の歴史を残せるようにしていこうと思います。

 

ただの記録の話に思えたかもしれませんがこれは人の敬意の問題、己の生きる世界を決める問題でもあります。

忌中のご加護

神社の神様ご眷属様にかわいがられると、霊的に困った時に助けてもらえることがあります(必ずかどうかはわかりません)。一度でもそうした体験をすると神社の高次元存在への想いは確かなものとなり、目に見えるこの次元のことに集中できるようになります。これはとてもありがたいことです😊

 

良きご縁と共に穏やかな心で一生をおくることができますが、その間時折不安を覚える時がやってきます。肉親の死による忌中です。

 

神社にもお詣りできませんし、何か起こった時にも躊躇するかもしれませんね。

 

忌中も安心して過ごせるように仏様とのご縁もいただき大事にしようという話です。

霊的な不安の時にはお不動様を頼りとする人が多いのかなと思います。私の場合、他には薬師十二神将(のうちのお一人)にお願いするつもりです。

 

神仏を拝むといっても人によってその割合はかなり違うことでしょう。私の場合は9:1くらいかな😅 偏り過ぎですね。

 

困った時の仏頼み? みたいで正直ちょっと気がひけてとなるかもしれませんが、高次元存在である仏様は自分の所にあまり来ないとか気にされません。事情を話せば自分の心は少し楽になるかもと思うので正直に言いましょう。適当なごまかしは通じないですからね。

 

お寺には諸事情で行きにくい人も、お堂なら町中も含め至る所にあります。人々が大事にお世話を続けているお堂を見つけたらご縁をいただけるようにお参りしましょう。

 

その時に落ちている明らかなゴミは片づけるくらいのことはするべきです。ただし、ゴミかどうか、また触っていい物かどうか不明な時は手をださないようにした方がいいです。そこだけの信仰の形は複雑でわかりにくいです。

第一条

暴力は許せないという言葉を今日はあちこちで聞きました。でも暴力とは物理的なものだけではありません。心に怒りをもって何かをなすことはいわゆる正義でもそれは暴力だと私は思います。どこに向おうとそれは何かを傷つけるエネルギーだからです。

 

今生きている人の多くは習ったはずです。

和を以て貴しとなす

 

争いをよしとする心はこの世的に良い結果になったとしても、それで高次元に至ることは決してないのです。なぜならそれは次元の中では低い段階までだからです。無理にしようとしても文字通り無理ですが、それを目指そうとする経験は後々までのお金では買えない真の財産です。

#ここに書けないこともあるし、書けることも文章力不足で上手く伝えられませんので皆さんそれぞれが何か考えてもらえると嬉しいです。

 

ご冥福をお祈りいたします。

海へ行こう

先輩経由で妹から聞いたことのひとつは海へ行くことでした🙂

2回海へ行きました。穏やかな瀬戸内の波は一定で足首まで浸かっていても急に膝上まで濡れてしまう波が来ることはありません(沖を船が進んでいる場合は別)。そこでネガティブなことを無くすのはやはり良いですね。

 

神道的には川から海へと穢れは向かうのですが途中はすっとばして海から始めます。

 

1.各種祝詞を奏上しながら海に入ります(足首まで)。

2.嫌な事を思い出して海へ流すイメージ。

3.その後、波の動きに合わせて寄せる時には吸い、引く時には吐いて呼吸を波と同一に。

4.静かに海と一体となったら(時間はお好みで)次に海から貰った力の替わりに吐く時に海へ穏やかな思い(力)を広げていくようにイメージ。

5.湾等に広がっていく感じがしたら海から出て終了。

祝詞は、祓いたまへ清めたまへと唱えてもいいでしょう。私は大祓詞の祓戸四神の部分を口にします。最初に自身を整えさせてもらってから一体化し次にお返しをする形で、この和するというお返し部分が重要のようでした。

 

こんな感じで数十分したらかなり心身共に無駄な力が抜けてよいかなと思います。

 

思いますというのは、ここまではっきりと各段階を意識してはいなかったからです。それでも充電を感じることはできました。次に海に行った時に確かめてみようと計画中です😁

追記

波がこちらの呼吸より速くて合わないので、波2回で呼吸1回にしないとダメなのは誤算でした。

 

今回のはいわゆるスピ神事? ですので皆さんにオススメするものではないです。ただ海で無邪気に遊ぶだけで充分かと。その場合の最大の問題は、ぼっちおぢさんが一人海ではしゃいでいると何かと……ですかね😅

 

大事なことを忘れていました。海水温上昇の影響か、ウミケムシが増えているそうです。興味のある人は調べてください。もろに毛虫の姿なので画像は無しです。砂浜以外では潮だまり等にもいますから裸足は危険です🙅 もうひとつはクラゲです。これはよく見てから海に入れば大丈夫かなと。本当は裸足がいいのですけど、サンダルが要りますね。

夏越の大祓(ちょっと追記あり)

明日6月30日は夏越の大祓なので茅の輪くぐりをしてこようと考えている人が多い夜かなと思います。私は明日は複数の神社でくぐってくるつもりでいます😁 人形は……その場で名前を書ければそうしたいです。

半年無事に過ごせたことに感謝してお酒を奉納して祝詞奏上は産土様に。無人の社で産子にこれが許されているのがありがたいところ。

 

先日から掃除に励んでかなり社殿が綺麗になったのですが、夏越の大祓が近いのでという意識は欠片も無し😅 これは、”意識できない自分”はいつもやるべきことを知っていてやっている例です。

#本当は忘れていただけ。

 

特別な日は確かに特別ですけれど、明日死んだら今日のお詣りが特別なものになるでしょう。一日一日がその繰り返しだから、普段からお詣りをしているのがよいかと。

 

多くの人が(平日だから難しいかもですが)神社に出かけることを願っています。

 

30日追記

天別豊姫神社ならあるだろうと行ってみたらありました(*'▽') 

いつまであるのかはたずねていないのでわかりません。お近くの方はのぞいてみてはどうでしょうか。駐車場が整備されていて広い道沿いにあるからお詣りはとても楽です。

#石段が結構長く自動車参道はありません。

 

石段途中から右の稲荷神社の下を通っていく旧参道があって、今日はそちらから上がっていくとお稲荷様の社殿下辺りでクロアゲハが一頭現れて社殿の方へ飛んで行きました😃

 

参拝を終えて一段下のお稲荷様にお参りした後、稲荷を出ようとしたら今度はこちらの蝶が目の前を飛んで少し先にとまりました。

 

なんか歓迎サインに恵まれて嬉しい日でした。

蝶が示すスピリチュアルメッセージとは?クロアゲハは神様の遣い?

クロアゲハとオレンジの蝶両方載っていたのでこちらのサイトにリンク。

a-wi.hatenablog.com

食事は禊

妹からの話で私にだけ当てはまるのではないことはブログに書いています。これもそんな話です。

 

ずっと昔に牛肉を食べるのをやめました。昔のことなので神道とか神社とかは無関係でした。試しにやめてみて肉の赤い色(血)が気になるまでは短時間でした。会食などでは一応食べますが、匂いに耐えられず一口か二口です。やめる前はパックの牛肉とシシトウを炒めて焼肉丼が自炊の定番メニューだったんですが人間変わるものです。

 

妹からの話で豚も食べないことにしました。もう生姜焼きも回鍋肉も角煮ともお別れです👋

 

牛肉を食べると一週間以上、豚肉だと一週間、鶏肉は二日くらい清浄さがダウンするらしいのです。つまり鳥以外の獣の肉は休日のお詣りに影響大なのです。

#少なくとも私はそうみたいです。

野菜なら大丈夫かと思って訊いてみたら、例えば揚げる油を共有していたら多少影響ありとの返事😮 これは調理の順番まで左右されるのですね。

 

清浄さが落ちると書きましたが、神社(神域)に足を踏み入れることが許されないということはないようです。あくまでも何か特別なお願いがあってできるだけのことをしたい場合の話だろうと思います🙂

 

さて、肉がまずいとなると食べられる物は穀類、野菜、魚が中心になるでしょう。あら不思議、戦後しばらくまでの田舎の食事と同じです。

三種の神器のひとつ(電気冷蔵庫)が普及するまでは、自分の畑でとれた野菜に魚屋(行商)から買った魚が日々のご飯だったはずです。魚については内陸だと頻度は海辺とは違っているはず。海に近い町では自転車や車で魚を売り歩く姿は昭和まではよく見られたものです。

 

冷蔵でないともたない加工食品(パック)摂取の変化は調べてはいませんが、お店に並ぶ(そして買う)食品を見れば増加してきたのは明らかです。

 

霊的には地産地消でご飯に味噌汁、煮物等の食事が好ましいと言われてもなかなか実行はできませんよね? 私も今まではやっていませんでした😅

 

この一ヶ月ばかり肉は鶏だけでそれも控えめに、玉子を増やして野菜はさらに大量に増やしました。調理方法も焼くか煮るで揚げ物は激減しました。肉がないと物足りないかと心配でしたが、魚があれば代わりになるし、翌日胃もたれしないのですぐに喜んで野菜を食べるようになりました😄 今では野菜の瑞々しさで体が清められていくような気がしています。

 

胃の調子が悪いと全てに影響します。それがないと気持ちも上昇します。先日の目覚めの件で不調が消えたのと合わさって体力の復活度が驚くばかり。短時間の神社清掃で動悸がしていたのが嘘みたいにいくらでも働けます💪

#菜食中心に切り替えたからだと断言はしません。体調(健康)には様々な要因がありますから。

 

上で昭和の田舎の食事を書きました。現在のような食事になって半世紀。今が例外の時代だったと遙か未来で言われるようになるかもしれません。代替肉の市場拡大は今後も続くでしょう。

 

肉やその加工品を食べたい人は食べられる間は食べればいいと思います。生きるだけなら必ずしも必要でないことも、高次元へ近づきたいと思うなら必要になってくる。私はお参りのスタイルを変えようとしているのでこのまま行ってみるつもりです。

 

手に水をかけるのが禊ではなく、心身の穢れを祓うのが禊。それは不断(普段)の努めによるものだとこの頃つくづく思います。

お詣りする神社を決める時に

観光や出張で訪れた町でたまたま目に入ったのでご挨拶をする。これは何も問題ありません。神社があったので素通りしなかったわけですから。

#お参りしなくても問題ありません。

問題はお詣りしようとした神社に諸事情でお参りが叶わず替わりにどこかにお詣りしようとすること。人間に置き換えてみるとわかるかもしれません。メンバーの一人が都合が悪くなったから数合わせでお前来ない? これでは大喜びはしないでしょう😑

#神仏は人間のように機嫌を悪くされることはないでしょうけど、ご眷属はそうした態度を歓迎はしないはずです。

 

あらかじめお詣りしたい神社を自宅で決めて御祭神や由緒をしっかり学んでからの方が敬意の面でより望ましいということですね😃

 

当たり前といえば当たり前な話でしたが、結構やってしまいがちかもしれないです。実際、このおっさんは「駐車場が使えなくなっている⁈ せっかく遠くまで来たのだからどこかにお詣りして帰らねばガソリン代がもったいない」で近くの神社にお詣りすることも多いです😅

 

今回書いたのは、妹にもうちょっとその神社の存在に敬意をはらいなさいと先日叱られたからです。書いていることとやっていることがかなりズレているのはダメですね。

 

ここまでは感心しない例です。逆にぜひそうすべきは、特定の神社が気になってしかたない時です。そうした神社は自然に神社のことを調べて楽しい気持ちいっぱいでお詣りしますよね。これはよい形です。

 

書籍やネットで調べてもどうししてもわからないことは田舎の小さな神社ではよくあると思います。その場合は、〇〇神社の神様(ご眷属様)、ご挨拶に参りましたで大丈夫でしょう。由緒看板がなく、ネットにも情報がないことはご存じでしょうからお許しくださることと思います🙂

 

皆さんが(叱られる人と違って)よりよいお詣りが出来るように願っています😁

昔々あるところに巳様がおったそうな

ある小祠にいた巳様は毎月のお祭りもしてもらえず長年放置されていました。これはその巳様の話です。ほぼ現在の話で昔話ではありません。すみません😖

人から、夢で蛇🐍が出てくると聞いて、まさかと思って妹に訊いてみると……なんとまだそこにいると⁈😲

 

慌てて呼びかけてみたら二人おられたのでした。詳しいことは本人? の希望で省きますが、まだ祠にいたいらしくきちんとしてほしいとのこと。こうした放置された祠にいる存在はどうなってしまうのか気になって訊いてみると、二人とも1mもないのでした。やっとのことで維持しているのが普通のシマヘビ程度の姿だと😥

 

今はその祠はちゃんとお祀りされています。時々話をします。お酒や玉子を貰えるそうで二人とも喜んでいます。なんと、大きさも3mくらい(当時)に。どんどん大きくなって半年以上経った今では驚きの20m弱に! しかし、それでも巳様として最大級ではないのだそうです。

#もともときちんと祀られている間は10mくらいだったそうです。

 

今回大事なことは、お祀りした以上は代々受け継いでいくこと。自分は信仰しないならきちんと勧請の逆の手順で元へお帰りいただくこと。祠のような信仰に関するものは、主のいない犬小屋程度に考えてはダメです🙅

#祖父母宅に何かあったなと心当たりがある方はどうかきちんとしてください🥺

 

この次元で活動するのはエネルギーが必要らしいです。それにはこの3次元での清浄さを掃除等して維持することが基礎になります。さらに祀る側の心の状態がもっと重要。例えば、今日も生きていることへの感謝の心、嬉しい事があった時の喜びの力等、パアッと明るくなるエネルギーをその場にいつもあるようにしないといけないようです。

 

無数にある小祠がその周辺を守ってくれる小さな拠点(高次元との接点)になれば、そこに住む人は安心(主に霊的にですが)して住めるのです。

 

だから一日と十五日にお供えをするだけでなく、気が向いた時は掃除をするなど日頃から共にあることを意識するべきなのだろうなと思います🙂

 

敬いと親しみのバランスは各自で思うようにとってみたらよいと思います。

#元々神社のご眷属で今は祠の主ということを考えると、敬いの方に少し傾いているくらいがいいように思います。

 

記紀神話の神々を感じることはなかなか難しいことだと思います。ですが、屋敷神や町中にある祠の存在はもっと身近です。こうした存在と共に暮らして何か感じることがあれば、さらに高次の神々を間接的に感じられるかもしれません。

 

ご縁は己の気分でどうにかなるような浅いものではないです。これは目に見えるものも目に見えないものも同じ。

 

はっきりわかっているご縁だけでも大切にしましょうといういつものお説教でした😁

お役目という言葉の罠

スピリチュアルな文章をある程度読むとすぐにこの”お役目”とか“使命”といった言葉に出くわします。この記事ではこれがいかに有害(となりやすい)かを私を例にできるだけわかりやすく書いてみます。

 

目次

 

【錯覚という罠】

役目だの使命だの特別な存在の話だの、スピリチュアル界隈には本当に多いです。自分を見つめてもはっきりと自身が理解できないこの次元の人間には、答えを与えてくれそうなこうしたものが魅力的にうつるのは仕方ないのかもしれません。

今までの人生には無かった上に恐ろしいものとは説かれませんから、自身がその特別なものと思った瞬間に深い穴に落ちていくのです。特に人と違うことを悪しきもののように捉える傾向が強い日本人には開放感によって、より気がつきにくいのかもしれません。

#上のイラストは驚いていますが本当は笑顔で落ちて行きます。

【自ら作り始める】

お役目のためにはそれができる者にならねばと次第に思うようになっていきました。寝る前に修行? に励んでも殆ど変化もなく焦りだけが肥大。自分自身でなれないなら虎の威を借る狐でもいいからなんとかしたいと願うようになっていったのです。

人は自分の中にある柱で立っているべきですが、それが作れない以上、外に斜めに棒を置いて支えるしかないのです。その棒には”特別”とか”高慢”とか書かれているのですがもう目には入らなかったのです。

 

【悪化から決別へ】

日常生活を送る私とお役目の道具として作り出した別の私、二人の私はどんどん離れて行きました。休日なく演技し続ける俳優みたいなものでしょうか。二年以上となると疲れが隠せないほどになってきたのを感じていました。

 

無理でも強引に進んで目的に着けばよし、と思い込んでも間違った方向に進んでいるのだからどうにかなるはずがありません。そこに喜びは皆無です。それでも自力では方向転換が難しいのは先日も書いた通りです。

 

うすうす気づいていたことを先輩にいろいろ指摘されてやっと、もうやめていいんだと余計な荷を下ろすことができたのでした。そして本当にもつべき荷を(教えられて)背負いました。

解放感は一瞥体験並みかそれ以上にあったように思います。二年間の反動を一週間ほどで受け止める眩暈のようなものを治すのに、その後さらに一週間の休息が必要になりました。

 

悪化したらこのように時間がかかります。

 

私の場合は今まで何度か書いてきた”事実に貼りつけた不要な付箋紙剥がしの自動化システム”が途中で方向転換したために未完成だったことに気がつかなかったのも一因でした。実際には剥がすよりも貼り付けの速度が上回っていたのです。過信は禁物ですね。

 

【結論】

特殊なお役目が仮にあったとしても気負う必要は全くありません。必要なものはちゃんと持っています。あるいは、生きていく過程できちんとそろいます。

 

何も無いのは不要だから無いのです。また、無いと思っていることの一部は自分が意識していない形で既に現れているはずです。そこで上記のように意識しては落とし穴にはまります。

 

意識でも自我でも思考でも言葉はなんでもいいです。自分が思っていない部分の自分は知っていて既にとりかかっているはずです。それはその瞬間には気がつきにくく、ある時過去を振り返らないとわからないと思います。漫画に散りばめられた伏線を読みなおして気づくのに似ていると思います。

 

人はお役目のためだけに生きてはいけないのです。この次元に現れた以上、もれなく人として喜怒哀楽を味わうコースとなっています。その人生の一部にお役目があるだけなのです。

 

他者から見ると特別なことに思える(隣の芝生は青く見える)こともその人にとってはその人の人生でしかないのです。誰かができないことを誰かができる=他者のため。そうして自分がこの世を楽しむことが繋がってこの世をより素晴らしくしていく、これが各自のお役目だろうと今は思います。

 

この人生だけを見れば横(他者)との比較ばかりになりますが、何度も生まれ変わる中での比較は本当は自身だけです。やっていくことは己に学んで他者へ与えていくだけです。与えられたことを受け取って自身に溶け込ませていくのはこの次元での学びです。

 

お役目なんて気にする必要は人が生きていく上で必要不可欠ではないのでポイっとゴミ箱に捨てて、今日できることと明日したいことに集中して残る人生を楽しみましょうと書いておしまいです。

 

追記

大事なことを忘れていました。自分はどのような状態であっても他者のことはそれなりにちゃんとわかるのです。監修済みなので過去の記事そのものは特に問題なく、削除する必要はないようです🙂ただし、どんな状態の者が書いたかは問題です。明るく放射するような状態で無いから、記事の持つ力が弱くなってしまったのはちょっと残念です。