ほわほわ神社生活

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神社が暮らしの中にあるおっさんのちょっとだけ変わった日常です。主に岡山県広島県の神社巡りをしています。神社巡りの記録や神社のことで思うことを書いています。

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人の向かう道

神社巡りだけでなくスピリチュアルにもリンクはっているので今日は神社から離れて少しそちらの方面を書いてみます。人間が生きる上での困難についてです。

#一部の人には傷口に塩を擦り込む文章がこの後続きます。もしも辛くなったら途中で読むのをやめてください。無理して読むことはないです。

 

人間は各自の霊的成長度にほぼ比例して様々な出来事に直面するわけです。辛い事に会えば文句を言う。どんなことでどれくらい文句を言うのかはこの成長度次第です。ある人が耐えられない苦痛は別の人にはなんら苦痛ではない。

体は同じ人間であっても中の存在は文字通り天と地ほども違う。よって同じ対処法で上手くいくはずがないのです。ブッダはこれをよく知っていて最適な説法をしました。

 

今の世はなんでも平等を主張しすぎています。命(存在)そのものに優劣をつけることと霊的成長度は明確に異なり等しくはないということを混同しているのです。目に見える次元と見えない次元双方に関する霊的問題を片方だけで判断して、これで何故問題解決が図れると思うのか疑問です。事実、精神的な問題は山積。誰もが苦しんでいるではないですか。

 

私もかつては己だけが世界から孤立し、のたうちまわるだけで時が過ぎて死ぬものと常に思い続けていました。早くその日が来るようにと願った回数は思い出せません。

私は幸運? にもある夜に起こった一瞥体験によって自己の作る牢獄から出ることができました。この体験自体はこだわるほどのことはありません。時が経てば次第にどうでもよくなるものです。

 

大事なことは、この体験は人間が自動化する"事実に対する主観という名の付箋紙貼り付け作業"を停止させることです。自分で意識してやめるのではありません。自動化作業の速さにそれでは追いつけません。それは対症療法です。何もしないよりはまし程度の。

 

人間は事実をそのままにすることができないようになっています。必ず主観を事実と共に置いてしまいます。そうして転がる雪玉のように膨れ上がった己の想いにつぶされてしまいます。一瞥体験はこれを一時的に停止させて事実のみを見させます。短期間の体験ですがこの間に悩みの元は己が作り出していることには気づけると思います。

 

そうなるにはそうなる直前の段階まで来ていなければなりません。残酷な結論ですが大半の人がその段階に到達していません。到達しているならこれだけ情報があふれる世です。とっくに世界は一変しています。

 

それでもこの事実に絶望して進むことをやめることはできません。

 

あなたが今味わっている苦しみは何度目でしょう? 人として初めてだと思いますか?もしも一度の人生で乗り越えてきたならあなたはとっくに先へと進んでいるはずです。何度も挫折してあちらとこちらを往復してきたのではないですか? 今回を次への一歩にしないとしたらもったいない話です。ただ苦しんだだけで終わってしまう。

 

他責はなんの利もありません。人それぞれの苦しみが違うから自分の状態を勝手に決めるなと誰かに言うことも同じくなんの益もありません。自責も同じです。作り上げた虚像の自分という他者へ向けているだけです。苦しみの中でこれを認めることはどれくらい辛く困難なことか……。

私には一瞥体験までにできなかった。外部の物理的問題以外は己の中に答えは見つかります。どうかそれに気がつける時が一人でも多くの人に訪れますように。自分はどこまで来ているのだろう? と思い、その答えが得られなくても己をみつめることの意味を考え続けることだけが明日に繋がると信じてほしいです。

 

我が国には幸せなことに先人が築き残してくれた神社という財産が無数にあります。神など信じなくても良い波動を受けることで進むために背中を押してもらえます。信じる人には上乗せ分もありますがこれは強制できないのでここでは無視します。

今回も無理やり神社に結びつけておしまいです。

 

追記

 

#一瞥体験無しにぐんと成長する人もいます。その場合は変化に気づきにくい。そうした書籍やネットの情報を読んでおくと判断できると思います

#自分が不可分の存在で全てのことは繋がっていると分かると周囲の他者もそうなのだと分かることで自責他責の念共に消失します。結果、どれほど楽になるかは言葉では言いあらわせないものなのです。

#続・人の向かう道で書き直しています。

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