ネットで見てこの神社に行ってみようと思ってやっと鳥居の前(社頭)に着いたのになんだか違う。ナビが示した場所だから合っているはずなのに……とまで書くと大げさですが、これに近い思いをすることはたまにあります。
社殿が新しくなっていたり、奉納された品があるなら良いのですけれど、殆どは社叢や御神木が無くなっていて妙にスカスカな神域になっているのです。
古い木であれば枯死したり、危険なためにやむを得ず伐採もあるでしょう。そうではなくまだ元気なはずの若い木が伐採されているとちょっと凹みます。
事情があるからわざわざ切ったのは分かります。でも社叢を無くしていくとたぶん二度と元に戻らない気がします。
鳥居をくぐって一気に変わる神域の気を吸って、木々の間の参道を歩いて行く間に高揚し、統一され澄んでいく気持ちに自分が満たされていく。とても大事な時間に思えるのです。それがないまま拝殿前に立つのはほわほわしにくいのですね。そんな時は正直に社叢が縮小したことでがっかりしたことを話します。そのうえで、気を取り直して明るくご挨拶を続けます。
他に、道路の拡張や新たに道路が出来たりして大型車両がよく通るようになると静寂も奪われます。俗と切り離された聖域感はもうありません。山の神社の場合です。元から町にある神社はまた別ですから。
そうなってもご眷属が守っているのを感じる神社があります。お祀りはきちんとされていることでふんばっているのかなと思います。そういった神社に居られる存在に少しでも何かできないかと考えて、今はいつもカップ酒を持ってお詣りしています。
社叢維持のために何か出来ることがあればいいのですが正直分からず(ケースバイケースでしょうから)。と言ってボヤいていても変わらないからこれからも上手い手がないか考えるつもりです。次の世代にも見事な社叢に包まれてほわほわして欲しいですからね😉