お礼詣りをする人は少なく、お供えを持ってそうする人はさらに少ないと聞かされる日々。今日は最近知ったことを書きます。特に目新しい話ではないですが神社との関係ということで私も一言。
神々にお願いして叶ったのでお礼詣りをして感謝を述べた。これ自体少ないのでとても良いことです。お礼の品はそれにちょっとした上乗せ。これは当事者間のことでその内で完結しているのでこれそのものはあらためて語ることはありません。
以前、循環が大事ということを聞いて書きました。この視点で見ると、神様と自分の間でぐるぐる回っただけ。双方向な分、一方通行より良いというだけなのです。
神様、助けていただき、ありがとうございますよりも嬉しいのは
”神様に後押しのお力をいただいたように、私も誰かの力になります。いただいたものを次へ渡していきます”
のような、人間に対する自分達の願いを叶えてくれること(宣言)らしいです。
伺った女神様はこんなお礼の仕方はどうでしょう? と聞くともの凄い喜びようでした。他の神々も同じでしょうか? と聞いてみると神なら皆そう思うだろうとの答えが返りました。で、別の女神様に事の次第を話したうえで聞いてみると、私も同じだと。
上で書いた自分たち(神々)の願いというのは至極単純なことで、他者へ労わりの心、慈しみの心を持てということに尽きるそうです。ただし、例えば寄付金で自身の生活費が圧迫されるようなことは望んでいないとも。それぞれの人生を楽しむことは認められているということですね。それでも、自身(の生活)を成り立たせたうえで何か行おうとするのは良いことだと。
余裕がなくてもできるだけのことをしようという気持ちは仏教でいう貧者の一灯と同じことのようです。心の在り方が問題。
我良しの人間が山のようにいる世で、そうでないことがどれだけ大変なことか。自らそうしようとする者へ向ける神々の期待は大きいのです。いつも本当にびっくりするくらいに。
●ここに追記
いつものお狐様はその稲荷の眷属になって百年以上経つのだそうですが、叶えていただいたお礼に、私も人のためにつくしますと誓った者はどのくらいいたのですか? と聞いてみたらなんとゼロ!😲 いやいくらなんでも年に一人くらいはと食い下がってもゼロ! そんな者はそうそうおらんと……。もしいたらどれだけ歓迎されるのかなと思ってしまいました。
●さらに追記
ゼロの理由について追記します。昔は普段から人のために何かするのが当たり前だったからわざわざそういうことを言わないという面があったようです。そして時が流れて今に近づくと人のために働きますと思う者はいなくなったと。こんな感じでした。
ここまで読まれて、よし自分もこうすれば喜んでもらえるのだなと意識してお詣りしてみようと考えている人がいるかもしれませんね。でもお願いの時にそう思うのは避けた方がいいと私は思います。神々の望みと自分の望みとの取引みたいになりますから。
純粋に無私から発したお礼詣り時の思いだからこそ神々に届くものなのです。本当の神々の願いは誰かにこれを教わるのではなく、自らそこへ辿り着いて欲しいということなのだと思います。
だからこの記事は読んだ人の成長の邪魔をしていると言えなくもないです。それでも記事にする許可が得られたのは、ゆっくり気がつくのを待つ余裕はもう……。
#このことについては何を質問されてもお答えできません。
成長の機会を奪った埋め合わせはしないといけませんね。直接神社へお詣りして言わなくても、自宅から神社へ向いて神様に人助けをお礼としてしようと思いますと話せばよいと思います。宣言した以上は実行してください。このことで神々に嘘をつくとご眷属の怒りはレッドゾーンに飛び込んでも不思議ではないと感じています。
理想は何も考えなくても神々の望む行いが自然にできること。それが難しいのは御承知のこと。それでも自ら近づこうとすること。神々とのお付き合いは大変でとても楽しいこと。
おしまい。