ほわほわ神社生活

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神社が暮らしの中にあるおっさんのちょっとだけ変わった日常です。主に岡山県広島県の神社巡りをしています。神社巡りの記録や神社のことで思うことを書いています。

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お役目という言葉の罠

スピリチュアルな文章をある程度読むとすぐにこの”お役目”とか“使命”といった言葉に出くわします。この記事ではこれがいかに有害(となりやすい)かを私を例にできるだけわかりやすく書いてみます。

 

目次

 

【錯覚という罠】

役目だの使命だの特別な存在の話だの、スピリチュアル界隈には本当に多いです。自分を見つめてもはっきりと自身が理解できないこの次元の人間には、答えを与えてくれそうなこうしたものが魅力的にうつるのは仕方ないのかもしれません。

今までの人生には無かった上に恐ろしいものとは説かれませんから、自身がその特別なものと思った瞬間に深い穴に落ちていくのです。特に人と違うことを悪しきもののように捉える傾向が強い日本人には開放感によって、より気がつきにくいのかもしれません。

#上のイラストは驚いていますが本当は笑顔で落ちて行きます。

【自ら作り始める】

お役目のためにはそれができる者にならねばと次第に思うようになっていきました。寝る前に修行? に励んでも殆ど変化もなく焦りだけが肥大。自分自身でなれないなら虎の威を借る狐でもいいからなんとかしたいと願うようになっていったのです。

人は自分の中にある柱で立っているべきですが、それが作れない以上、外に斜めに棒を置いて支えるしかないのです。その棒には”特別”とか”高慢”とか書かれているのですがもう目には入らなかったのです。

 

【悪化から決別へ】

日常生活を送る私とお役目の道具として作り出した別の私、二人の私はどんどん離れて行きました。休日なく演技し続ける俳優みたいなものでしょうか。二年以上となると疲れが隠せないほどになってきたのを感じていました。

 

無理でも強引に進んで目的に着けばよし、と思い込んでも間違った方向に進んでいるのだからどうにかなるはずがありません。そこに喜びは皆無です。それでも自力では方向転換が難しいのは先日も書いた通りです。

 

うすうす気づいていたことを先輩にいろいろ指摘されてやっと、もうやめていいんだと余計な荷を下ろすことができたのでした。そして本当にもつべき荷を(教えられて)背負いました。

解放感は一瞥体験並みかそれ以上にあったように思います。二年間の反動を一週間ほどで受け止める眩暈のようなものを治すのに、その後さらに一週間の休息が必要になりました。

 

悪化したらこのように時間がかかります。

 

私の場合は今まで何度か書いてきた”事実に貼りつけた不要な付箋紙剥がしの自動化システム”が途中で方向転換したために未完成だったことに気がつかなかったのも一因でした。実際には剥がすよりも貼り付けの速度が上回っていたのです。過信は禁物ですね。

 

【結論】

特殊なお役目が仮にあったとしても気負う必要は全くありません。必要なものはちゃんと持っています。あるいは、生きていく過程できちんとそろいます。

 

何も無いのは不要だから無いのです。また、無いと思っていることの一部は自分が意識していない形で既に現れているはずです。そこで上記のように意識しては落とし穴にはまります。

 

意識でも自我でも思考でも言葉はなんでもいいです。自分が思っていない部分の自分は知っていて既にとりかかっているはずです。それはその瞬間には気がつきにくく、ある時過去を振り返らないとわからないと思います。漫画に散りばめられた伏線を読みなおして気づくのに似ていると思います。

 

人はお役目のためだけに生きてはいけないのです。この次元に現れた以上、もれなく人として喜怒哀楽を味わうコースとなっています。その人生の一部にお役目があるだけなのです。

 

他者から見ると特別なことに思える(隣の芝生は青く見える)こともその人にとってはその人の人生でしかないのです。誰かができないことを誰かができる=他者のため。そうして自分がこの世を楽しむことが繋がってこの世をより素晴らしくしていく、これが各自のお役目だろうと今は思います。

 

この人生だけを見れば横(他者)との比較ばかりになりますが、何度も生まれ変わる中での比較は本当は自身だけです。やっていくことは己に学んで他者へ与えていくだけです。与えられたことを受け取って自身に溶け込ませていくのはこの次元での学びです。

 

お役目なんて気にする必要は人が生きていく上で必要不可欠ではないのでポイっとゴミ箱に捨てて、今日できることと明日したいことに集中して残る人生を楽しみましょうと書いておしまいです。

 

追記

大事なことを忘れていました。自分はどのような状態であっても他者のことはそれなりにちゃんとわかるのです。監修済みなので過去の記事そのものは特に問題なく、削除する必要はないようです🙂ただし、どんな状態の者が書いたかは問題です。明るく放射するような状態で無いから、記事の持つ力が弱くなってしまったのはちょっと残念です。