ほわほわ神社生活

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神社が暮らしの中にあるおっさんのちょっとだけ変わった日常です。主に岡山県広島県の神社巡りをしています。神社巡りの記録や神社のことで思うことを書いています。

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互いの想いにより生まれる存在の不思議

昔々まだこの身体が若かった頃、高藤総一郎という人の本を読んで仙道(気功)修行もどきをしていました。今は一冊しか手元にないので記憶頼りですが、たしかイメージで自身の十二神将を作って目的別に使役するといったようなテクニックが紹介されていて、私も手当担当(当時はヒーリングなる用語はまだ一般的でない時代でした)の女性を一人作り出しました。

 

現場作業で足の疲れが酷く、就寝時に彼女に足をマッサージしてもらうのです。もちろん、自分で想像するのですが、これが日増しに本当にそうした存在がしてくれているような感覚になってくるのです。ほとんど意識して行わなくても足には見えない手が触れている感覚があるのです。それを感じているうちにいつしか眠っているのでした。朝起きた時の疲れも実際に違っていました。

#足を意識していることで自律神経に働きかけ、緊張が解けて血流がうんぬんが理由ではこの記事ここで終わりになるのでそうした考えは無視します😤

 

仕事が変わり、足の疲労とさよならした私はいつしか彼女のことはすっかり忘れていました。時々思いだしても、どう接すればいいのかわからなかったのです。今はもうわかりません。生みの親である昔の私の内に還ったのならいいなと願うばかりです😔

 

後年、ネットでタルパというものを知りました。高藤氏のテクニックもこれと同じものだったのかもしれません。

 

これはあくまでも自身の内で生み出して外に置いたエネルギーの塊です。では、これが複数人だとどうなるか。例えばある絵を見て多数がこれはこういうものだと認識したら? ある場にそれは存在するようになります。それを人が神的存在とみなしていたら、それは神になるのです。より正確には神を演じるための器です。

自然発生的な民間信仰で神と崇められる場合、器となるイメージとそれが備える力がないと成立しません。備える力には二つあります。一つは人々が少しずつ提供した自分達の集合エネルギーで、もう一つは元々力ある存在がそのイメージの器に与える場合です。

 

別の存在が神である場合、人々が信じるものを無下に否定せず自身が代役を演じることで新たな信仰対象である神社の神を作り出します。

 

神社で御祭神と全く異なる御神徳を持つ岩、樹などがあることがわりとあります。こうしたものは元々持っているエネルギーに人のエネルギー(念)がプラスされて増幅されたものか、そこの御祭神が放つエネルギーを人々が岩や樹の持つ御神徳だと勘違いしているものかです。

 

人々がすがり信じる気持ちに応えてくださったことを人が誤解しているが、それをいちいち正すことはされないのですね。姿を見せない以上、起こりうることで、許容範囲だと。

 

岩や樹の御神徳と言うと、それは誰かが言い始めたことを大勢が信じたから、つまり分母が大きいから中にはその通りの結果になっただけだろうと思う方もおられるでしょう。そうした面は否定しません😌 しかし、願えばある程度の確率でそうなるくらいでは長い間保たれる信仰にはなりにくいのです。信じられないようなことが定期的に起らないと人の気持ちはすぐに離れて行きますから。

 

昔は人と神の協力関係で成り立った特殊な神は現代ではその姿を少々変えました。

 

人間のイメージはかつてないほど容易に他者と共有できるようになりました。大勢の人が二次元や三次元の萌えキャラを皆で共有して楽しんでいるでしょう。

 

寺社にイメージキャラクターがいる場合には、そうしたキャラの役割を演じるご眷属が今は存在しているという事実。こんなことを書くとますます読者の皆さんに呆れられそうですが……😅

 

何かの姿に見える岩もキャラ絵も人との接点という意味では同じで、過去も現在もそうした仕組みは有効です。あまりにもふざけたものでない限りという条件はつきますが。ある程度の敬意がそこにあれば大丈夫です。

 

まあ、あまり難しく考えず〇〇さまと手を合わせていればそれでいいのです、きっと😉

 

人が良いイメージを持てばそれに対する反応があります。これは逆に考えると少々恐ろしい話でもあります。今回はそこには触れないでおきます。いつもネガティブなエネルギーをむやみに出すなと書いているのには無数の理由がありますがそのひとつでもあります。

 

追記

今回書いたことは様々なケースでよくあることですが、もちろんこの限りではありません。