ほわほわ神社生活

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神社が暮らしの中にあるおっさんのちょっとだけ変わった日常です。主に岡山県広島県の神社巡りをしています。神社巡りの記録や神社のことで思うことを書いています。

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人を汚す前に自分を汚している人生に別れを告げよう

コメントでは長くなりすぎて(その記事よりも長くなるのもアレなので)新たに書く記事があります。これもそのひとつです。

 

これから書くことは何度も書こうとしてやめた記事、『負の扇動者達』の一部になります。今まで許可がおりなくて今回コメントに対しての返答という形で一部書くことができました。

 

内容は今まで書いたことがある記事の焼き直しになります。全部新たにとなるとダメだったので。では、この世を汚すことと人の関係の話を始めます。

 

思念の穢れと禊は日本人として生きることの根本。禊は必要なことですが、そもそも穢れが無ければ不要なこと。日常生活の中での罪穢れで現代人がすぐにすることがネット根流しです。根は毒、それは怒り。

 

前提として、何やらけしからん物事があるので怒りが湧いたとします。その後、けしからん物事が消滅したら残るのはどこかに行った怒りの念だけです。では消滅しなかったらどうなるのかと言えば答えは両者残り続けるです。簡単な話です。次は物事と怒りのエネルギーのふたつの解消に向けて動かねばならなくなります。時間を費やして問題を増やしただけですね。この過程で例えばXのリポストのように他者の念の拡散に協力しているとよりそうなるでしょう。

 

怒りで何かの運動を始めたら同士が集まった結果、問題が解決した。めでたしめでたし……とはならないようなのが大問題。発した思念(エネルギー)はどこかで形を変えて噴出することになるのです。そしてまた怒りで向かうといういたちごっこです。

 

上でけしからんと表現しましたがこれは個人の感情をそこに載せています。実際には、〇は×だと書いて終わりにできることです。

 

完全な事実のみというのは簡単ではありませんが、できるだけ近いもので構いません。それと己が今思っていることと比べてみれば何を己がくっつけているのかが見えてきます。

 

感情は勝手に起こることで制御不能と思うのは間違っています。何もなく起こることはありません。必ずその前があります。思考の速さでは追いつけないこれをとらえることができたら初期の悟りと思ってよいのでしょう。

 

で、これが誰でもできるかと言えばもちろんできません。今まで積み重ねてきたことの結果、ある人生で起こることですので、その段階まで達していないとダメだと思います。自分だけの力では不可能でも、言葉(思考)でそれを一応は説明できることから他者の説明を見聞きすることで知ることができます。その説明によって、そうかと思う人はいます。それを思考に頼らずに得ればいいのです。ここでまたこの段落の最初に戻るのですが。

 

はっきりと理解できなくても、なんとなくでも自分が付け足していることは自分の中だけのことだと思えたらコントロールしようと考え始めるのではないかと。

 

感情は瞬時に自動で起こるのはプログラムだからです。その基は当然最初からあります。ですが、より拡大して実行するようになったのは自分自身がこの世で過ごすにつれて書き換えたからです。ここが一番重要な点です。最初にAが起こったら瞬時にBを発生させ、さらにCを続けるといった多段階になっています。

 

無くすことは不可能でも実行の範囲を定めることは不可能ではないのです。上記のAはダメでもBとCの間を遮断できた。その時、あなたはネガティブな思念の発生機関(装置)ではなくなります。

 

ある時点よりも清浄であろう(ネガティブな念を出さない=穢れを生まない)と努め、それを成し遂げたことが禊です。人間が神仏の方を向くことも、魔の方を向くこともできるのに己の在り方を神仏へと定めたのです。これこそが真の自分軸です。己が望む好きなことをやろうというようなことは実際は他者(文字通りの他者と己の内にいる別の自分の両方です)と比較しています。比較していないならそもそも好きなことと嫌なことを区別することもありません。そこにある自分が自分ですから(少しわかりにくいと思います)。

 

ネガティブな念を不必要に発しないのは神仏と魔を比べて選んだのではなく、人としてどんな回り道をそれぞれが辿るにせよ、究極的にはそうなる(ある)ことが霊としての己が存在する理由だからにほかなりません。究極ということはそうでない時点では魔の方もあり得ます。

 

本当は怒りひとつとっても三次元存在にはわからないことのようです。同じ次元のことは俯瞰できないので仕方ないのでしょう。これまで書いたのは全て三次元的な解釈です。上から見るものとはやはり離れているとのことでした。

 

何と言われても、私は勝手に起きる感情も含めて私だからと言うのならそれでもいいのでしょう。この人生がそうだということで、次はまた違うでしょうし、過程を見て全否定は三次元的思考でしょう。

 

ただ、ネガティブな思念の制御がある程度でも可能になれば成長が早まる人もいるでしょうし、そうなれば脳内の思考が短時間でも止まるかもしれません。そうしたこととネガティブな思念で己を損ない続けていることの違いに触れたら、次にしなければいけないこともわかると思います。見えない壁を越えるのにどす黒い力は足かせになります。清らかなことは単純に、心地よいのです。楽なことは皆好きでしょう? それですすめているのです。

 

神仏をどう思うかにかかわらず、良いエネルギーに包まれるのはお金では絶対に買えません。別次元にも通じる尊いものは各自の内にあるので懸命にこれを探して掘り出すのみ。

 

これはとても難しいことなので、ネット根流ししている暇があったらこちらに使わないといけません。明朝、肉体の目が覚めるかはわかりません。

 

今まで数年間書いていた、喜びのお供えをしようとか、特に困りごとなどなくても神社に行って今日の出来事を話してその感謝を伝えようとか、自分が許される範囲で境内を掃除して清らかにしようとか、ネット根流しをやめようとかのことは全て、己の穢れを己で祓うことが己のためだけでなく他者のためにもなる在り方の追求の姿(の一例)を示すためでした。

根流し人生を卒業して禊の人生を歩むも歩まないもあなた次第です。

 

追記

あまり真剣に考えてもアレなので、何かひとつでも禊をするぞ! くらいでいいと思います。