前記事のコメントでは長く書けないのでわかりやすく一記事にしておこうと思います🙂
ネットね流しと負の扇動者達が発生させる毒は今日も世界に積み重なっています。なぜ自身の人生に起こる自身の問題を自身で処理できないのでしょうか? あなたの外に出せばどうにかなるのですか? ならないとわかっていても己さえ一時よければいいからでしょう。
個人のねを束ねて一人を越えたものになる行いをあえてする者が負の扇動者です。いちいち問いかけの形で他の人が反応しやすくしている者はネット上にどれだけいるか想像もできない数でしょう(それくらい頻繁に目にするということです)。

集団となって例えば病気への無理解とみなした者へ「おまえもなってみろ」とか「不幸な目にあいますように」のような呪いの言葉を続けるのはもはや集団呪詛です。極々稀にその行為は呪いですよと指摘する方が現れますが、それに対して反省の弁を述べる者はほぼ皆無でした(私が見ていないだけでいたケースも勿論あったとは思います)。
この姿、何かに似ていませんか? 神社の祭りのちょうど反対なのです。
祭りは大勢の村人が集まって普段とは違うことを楽しみに行われていたはずです。人の想いが合わさってより大きな明るい想いの力(実りともたらす存在への感謝等)へとなっていくのは、負の扇動者達に率いられて呪いの言葉(ね)を流す共同作業とは似て非なるものです。
人の中身の段階は様々です。ですが、大勢でひとつの目的をもって行ううちに、それぞれの放射は作用しあってひとまとまりの放射へ整っていくのです。普段よりはより高いものに一時的とはいえなることで、土地と土地神と人のムスビはしっかりとしたものになります。その好影響はしばらく継続するのです。これができているなら何か特殊な存在に頼る必要はなかったのでした。
人はこの世で器を動かすものを得るために田畑を耕して種を播きます。種は芽吹いて成長し、器を維持する実りを人にもたらします。
器の中身(霊でも魂でも適当に思っていてください)もこれと同じです。思念の種は皆の祭りで耕されて霊的な実りを人とその土地にもたらすのです。
霊的な耕作を放棄して霊的田畑に水や肥し以外を撒き散らかせば実りは得られません。その場合は代わりの何かがそこにあることでしょう。
その土地その土地を見守る鎮守の神様の祭りは準備期間を入れてもわずかな日数です。春季と秋季の例大祭だけ氏子が中心となって行っているのではありませんか? それに対して負の扇動者達と同調者達の活動日数は毎日です。この世のものではない神仏の反対側にいるものの笑みが見えるようです。
神主や僧侶が日々この世のことで良き思いの力を使っても、ね流しをしてぶち壊す者の数、そして量が激増した今日では悲しいことに焼け石に水かと。
そんなこの世でも、己はね流しをせず負の扇動者について神仏に背を向けて去っていかないように努めないといけないのだと思います。

うちの神社には夏祭りがあるよという方、今回はいつもよりも気合を入れて(いやいやでなく)準備してみてください。たとえ身体は疲れてもあなたの不可視の部分はそれ以前より満ちていますから。
自分軸は自分から遥か高みにある存在との繋がりの別名です。負の扇動者が離れる方向の者ならば、近づく方向の正の先導者を目指していきたいですね。正の先導者は宗教家になることを意味してはいません。己が己を先導することですから。
集団の役割が終わっていくのなら、真の自分軸を確立した個が増えることで違う世界の片りんくらいは見えてくるのか。
何かよくわからんですよね。わかりやすいのから始めましょう。
チリも積もれば山となる。いちいち今日起こったつまらん己だけの不平不満を書き散らすな。
五月蝿え!
某漫画のお釈迦様、初めて読んだ時の私こんな顔に😲 おしまいです。