この世に生きるほぼ全ての人の人生は未知との闘いです。
未知ゆえにそれを知ろうとして生きたり、わからないからその日楽しければいいと生きたり、先が見えない恐れから怯えたり、死ぬことばかり考えたり、まさに十人十色です。
あちらに還った時に、わからないなりに当初予定してたことをできた人生だったと思うか、別の事をして当初の予定と違った人生だったなと思うか、おおまかにいくつかに分類できても、そのどれも答え合わせをして知る楽しみと哀しみのセットになることでしょう。それが次への原動力です。
その時の人類の中で極少数ですが、自分の人生を正確に知っている者がいます。これは見えない存在から教えられるか、記憶(それに関する神通力を含む)を持ったままで誕生して生きることになるかのどちらかの理由によります。
分かっているから人生とは? と苦悩することとは無縁です。それは多くの方からみればとても幸せなことかもしれません。が、当人にとっては別の苦悩に直面しているのです。
わからずできなかったは大した問題ではありませんが、わかっていてできなかったは大きな問題。わかっていてやらなかったは査問会議レベルの問題です。
これは存在理由に関することですから、最悪強制送還もありうる話なのです。強制送還=器の剝奪と思ってもらって結構です。
死ぬことは別に大したことではないのです、本当は。その後本人が苦しむことに比べたらです。これは未知の人生の人と比べられない違いがあります。
こうしたリスクがあるのが既知の人生です。そして、既知の人生を歩む者を妨害したいモノ達と計画に沿って終わらせたい者達とが繰り広げる見えないドラマの主人公というリスクもあります。
こうなると自分の人生と言っていいのか少々疑問に思いますが、他者の人生ではないのでそれもありなのでしょう。
狭い意味でお役目とか使命と言われるのはこのごく少数の人達の生まれる前の予定(計画)の事です。選択肢が他にある多くの人達と違って人生は最初から最後まで決まっています。
文字通り、決まっているのです。だからまだ見ぬもの全てが既知なのです。
こう書くとそれも辛いなと思われたかもしれませんね。でも、進捗状況は正確に自分でわかりますから、ある程度まで仕事を終えたらほっとして、とても楽な人生になります。それまでがちょっとキツイのがお約束ではあるのですけど。
人生に己が切り開いていく(気がする)喜びは無いが正確につかめる既知の人生がいいか、筋書きのない(ように思っている)アドリブたくさんのドラマを演じるのがいいかはその人次第でしょう。
既知の人にも日々の小さな出来事まではわからない(覚えておけない)はずです。だから思いがけないことは無くなりません。それがなければ世界におけるただの道具になってしまいますから、これはありがたいことです。
#自分を道具と呼ぶのは守護霊がとても哀しむことなのでこうした説明のための文章以外では使わない方がいいです。
明日がわからないのを恐れることはありません。明日がわからないのをありがたく思えるような宗教的な心の激変(例えるなら虫の羽化みたいなもの)が起これば、未知の人生は大きな喜びに包まれることでしょう。それは己が己の心あるいは霊的なものを真剣にとらえようともがき続けた果てにあるひとつのゴール。

それは”ある”が誰かがくれるものではないのは確か。未知でも既知でもいい、人生で己の霊としての輝きを放つことができたら最後は同じです。