ほわほわ神社生活

ほわほわ神社生活

神社が暮らしの中にあるおっさんのちょっとだけ変わった日常です。主に岡山県広島県の神社巡りをしています。神社巡りの記録や神社のことで思うことを書いています。

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我の使い方

守護霊にこちらから質問して答えをもらって考える方法だと、自分の質問の範囲が狭く偏っていたらはっきりした答えが得られにくいと、ずっと昔の記事に書いたような覚えがあります。自分の内側だけで難しい場合は外部から取り入れないといけません。

 

幸いなことに、私には自分よりも早く急激に進んだ先輩がいるので、自身でどうしてもダメだなと判断したら、私の代わりに守護霊達に自由に話してもらった内容を伝えてもらえるので非常に大きな助けになるのです😌

 

今回も知らなかったことをいろいろ伝えてもらえてほっとしました。

 

私のカン違いがわかったことで少し書いていきます。

 

コロナ禍で遅れていた仕事を早くなんとかせねばと時に休日返上で頑張っていたのです。ところが、実際には遅れるどころか早かった。だからペースの指示を守護霊達がしていたのに、思い込みのせいで指示を反対の意味で受け取っていたので、さらに加速した。

 

負荷がかかるのは自覚していても、三次元なら器(このブログは肉体の事をそう表現しています)が疲れるのは当たり前と思っていました。

 

守護霊は上の次元から見ているので私以上に把握しているのです。だから今のうちになんとかしようとすればするほど逆効果になっていく事態にまいったことでしょう。

#本当にごめん🤦‍♂️

 

普段一点集中する必要が無い場合には私は全周にレーダー(的な何か)を働かせています。疲れていると上手く働きません。また、目標を定めるとそちらに範囲を狭めています。こうなるといくら相手がこちらに発しているエネルギーがあっても感知できないのです。

 

以前に守護霊よりの電話について書きました。

 

a-wi.hatenablog.com

なんということでしょう。偉そうに書いている己も鳴りっぱなしの電話に気がついていなかったのでした😫

 

理由は簡単です。故意にではないが己の内に入れずに表面ではじいていたのです。これは下の話が近いかと。

 

a-wi.hatenablog.com

守護霊達からのものは受け入れないのではないのに、別方向に向いているとすっと深い部分まで入れられなかったのです。

 

先輩の文はこちらが聴きたいと思っていることなので、すっと内部に入れることができた。

 

守護霊も先輩も能力に疑いの余地はありません。ですが、私の状態のわずかな変化で大きな差が生まれてしまったのでした。

 

ここでようやく記事タイトルになります。結構多くの人が他者の意見をそのまま内に入れることを極度に恐れているようです。それですぐ上の二つの過去記事のようなことが起こるらしいです。

#実際にはもっと複雑な話だそうですがここまでにして先を急ぎます。

 

こうした人達が自分の外と内を分けるために使っているのが”私”とか”我”です。これは何の変化も生みません。そうでなく、己の内側深くに入れてそこで共鳴させるのです。その結果を良しとすることが我の使い方で、これは無批判に丸ごと受け入れて何も考えていないように見えるかもしれません。

 

しかし、最後にきちんと認める過程があることで、他者のありがたい言葉(思念のエネルギー)がそれ以前とは異なる”私”を作り出すことになるのです。

 

常に変わり続ける”私”あるいは”我”は、”変化を恐れていることを意識することを恐れる私”では生むことは難しい。

 

我の使い方を変えることができたら、成長は階段を上がるのではなく、瞬時に別の場に存在していたようになります。

 

車で例えるなら、アクセルペダルとブレーキペダルを踏んでいる状態からブレーキペダルから足を離したようなものです。それだと加速に時間がかかるから、発射準備のできた弩の引き金を引いたような感じでしょうか。

 

一瞥体験はこうした意識の跳躍を理解するのにちょうどいいものだと思います。

 

自分が変わるのと、瞬間的に違う自分が存在しているのとは、他者からは同じように思えるはずです。ひとつ大きな違いは、不要な部分が残っているか最初からそれが無いか。

 

書いていて思いますが、言葉では伝えにくいです。ここらでまとめましょう。

 

相手からの言葉(思念のエネルギー)をはじかずに内に入れて共鳴させて発生した所で初めて我を使うのです。それは自分軸とか私を大切にという謎の言葉で、他者イコール自分より尊重しないでいいと思う心の動きとは別のものです。共鳴後はエネルギーの流れが元の方向(つまり相手)へ自然に定まるのでこれを妨げない。

守護霊や先輩を信頼しているから、こうした過程は意識せずともスムーズ。信頼は共鳴による結果、つまり和によって生まれたもの。これが存在を先に進める力。

 

意見の相違はこの段階でもあります。ですが、共鳴させながらのものは相違=悪ではなくなっています。

 

人は己しか変えられないとスピリチュアルな世界では耳タコくらい聴く言葉があります。本当は己も他者も同時に変えられるのです。相手の中では同じことが起こりますが、それは互いに己の部分だけしかとらえられないからそう見えるだけです。

 

上の己しかの話は、共鳴し和するために一度分かれたことを知識でなくとらえられたらいつか消えるものだと思います。それまでは難しいし、高次元から何か伝えられても(三次元向けに)他者を必死に変えようとするなのような話のままだろうと思います。