ほわほわ神社生活

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神社が暮らしの中にあるおっさんのちょっとだけ変わった日常です。主に岡山県広島県の神社巡りをしています。神社巡りの記録や神社のことで思うことを書いています。

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氏神様(産土様)の力🙏

目次なしのだらだら記事です。今日はパワースポットとして紹介されることはないだろう全国の多くの社の話です。

 

現代人にとっての意味はにたようなものになっていますから、ここでは生まれた土地が違う人はその神社は住んでいるご町内と別に(氏神様と産土様が)あることになります。生まれてずっと同じ家(土地)に住んでいる人は同じです。

氏神様が誰でも知っているような大きな社の人もいれば、氏神様が旧社格で無各社の人もいるでしょう。氏子数としてはこちらが多いかも。

 

住んでいる土地の神=氏神になっているが、小さく個人的に好きな神様を祀っていないこともあって離れた大きな神社にお詣りしている。だから町内の小さな氏神様には初詣くらいしか縁がないという人は御朱印やお守り等の関係もあって結構いるのではと予想します。

 

両親は実家を離れて結婚して自分が生まれたとしたら、そして近所の人とあまり親しい付き合いがなかったとしたら、氏神様の御神威を高齢の氏子から聴くことなく成長しても無理はないと思います😑

 

土地のお年寄りから聴く神社の話は本当かなあ? と首をかしげるものも中にはあるでしょう。昔はバチを意識している分、そうしたものよりの多少尾ひれがついた話の流れになっていることは考えられます

 

物心つく頃から氏神様の信仰を自然な流れで吸収してこないと、不思議な話は不思議なことで終わるだろうなと思えることはいろいろとあります。ありますけど、機会がない人にはなしです😔

 

氏神様(産土様)が自分の好みの崇敬神社と違うのは、氏というようにそこに住んできた親戚との縁が自身に及ぶからです。崇敬する大社がどれだけパワースポットともてはやされようとも、自身が生きているその場とのムスビがあるのは土地の氏神様(産土様)です。このムスビは人が生きていくうえで基本になることですから、決して軽んじてはいけません🙂

 

大きな神社は神様も凄そうだからお願いも叶うかもと思いがちなのはわかります。ですが、よほどとんでもない願いでもないかぎり、少し時間がかかっても(条件が整ったら)叶えるくらいの力はその土地の小さな氏神様も持っているのです。

 

神々は自分(と自分が祀られている神社を)拝めとは思っておられません。ご眷属様は閑古鳥はよく思われないでしょうけど😅 特に、他の神社から勧請(お願いと契約)した神社では。あちらから来いと呼ばれたら行くでは……でしょう。立場が逆です。

 

よく、神様には事細かく事情をお話して自身の要望を伝えることと言われますね? なぜそう望むのかはしっかりお話すべきでしょうが、結果に影響する過程まで細かくし過ぎない方がよいのかもと思うことはそれなりに経験してきました。

 

人間の視野は、特に困難の最中には驚くほど狭くなります。一方、神々は広くものを見て最適なものを選ばれます。人間の判断より確実に上なのですから、そこはお任せした方がよいと私は思います。

 

つい先日も困り果てて限界が近い人の願いが思わぬほどあっさりと決まるのを見ていました。人間として一生懸命頑張ることに上乗せしてくださったのでしょう。

 

その人自身は神社へのお詣りに熱心なわけではないようです。上のケースでは他の当事者や周辺の人のお詣りやお願いと同時に、精一杯な人のことを考慮の上で起こったことと感じました。

 

これは氏神様というよりもより近い産土様のことになります。町内に複数の神社があることもありますから。

 

氏神様、人によっては産土様の御神威にはそれぞれ特有の傾向が見られます。これは具体例を書くわけにはいかないのですが、敬神の念のある氏子(産子)とそうでないものにはやはりはっきりした”おかげ”の違いがあります😌 人生最後の贈り物でした。

 

暇があればお詣りしてお願いもするが同時に日々の感謝も忘れない。自分にできることとして掃除などをしてお返しをする。ムスビの良き渦巻はそこに触れた他のものも変えていく。御成敗式目のアレは少なくともある程度までは正しいと思います。

 

自分の氏神様(産土様)に御神威を発揮していただけるように努力することなく、棚ぼたを望んで大きな社に行っても、単なる社殿見学でおわることでしょう😲 身近な神社とのムスビをしっかりとしたものにしていれば、特別な問題に対しては遠方の神社にお願いしてもお力をいただけるかもしれません。

 

かもしれませんと書いたのは、どうにもしてやれない事情はいろいろとあるようですから、それはかなわないケースになってしまいますので。

 

実家を離れて新たな家でそこの氏神様と暮らしている時も、もし生まれ故郷に戻った時は産土様にご挨拶しておくべきかと思います。自分のことを故郷の誰かが産土様にお願いしているかもしれませんので。実際にそのケースを知っています🙂

 

知らないし、自分がお願いしていないのだから、お礼詣りは必須ではないです(できません)。ですが自分のために誰かが何かをしてくれていたなら、感謝は当たり前ではないでしょうか? 死ぬまで知らなくて何もしなかったということを避けるために、もしかしたら誰かが自分のために日々お願いをしてくれているのかもしれないと思って来ましたと一言ご挨拶したうえでそうすればと。それが勘違いでもたぶん悪いことではないでしょう。

 

まあ、こうしたことを思う人はそもそも普段から目に見えないことに感謝しているからこの部分は不要かもしれないですね😅

#繋がりは自分が気がつかないことわからないことが無数にあるはずと思うことで、思い上がらず生きていくことができるのでは? と思います。

 

適当に生きていながら神様にお願いすることはできないと思って懸命に生きれば、それから死ぬまで神社に行くことがなかったとしても、見えないところでしっかりと神々と繋がっているはず。

 

己に正直に生きるということが今の流行(はやり)ですが、欲望を満たすのに必死なことがそうではなく、正に直にこちらからあちらまで貫くことを試してみてほしいです💪 生きていられる間に😌

 

追記

江戸時代の人も、病気平癒のお百度もすれば物見遊山で遠方へのお詣りもしてますし、他所の大きな社⛩️にワクワクしてお詣りするのはもちろんアリです☺️