神道っぽい響きの言葉を書いているだけです。ただ、これからの社会が発展か停滞かはわかりませんが、どちらに向かっていても少しは意味がある話です。
目次
【ここで言うムスビとは何か】
土地と神と人との共同作業とその約束を指すのがこの記事のムスビです。
【令和の世で神代を生きる】
これは太古の豊芦原瑞穂国に戻すのではありません。科学技術等、人の可能性を広げる行為の放棄は数千年(数万年?)の人の営みの否定です。それは神々の望みではないです。
今は分断がどうのこうのと盛んに言われています。人間の階層化の話のようにとらえている人が多いのでしょうけど、土地と神と人のムスビがほどかれ(断ち切られ)ているのは間違いなく分断でしょう。
物理次元の地球(大地)がある以上、そこから気持ちが離れてはいけません。大地を仲立ちにして神と人がそれぞれの役割を演じることが神代の暮らしです。人間には神の役割を詳細に掴むことは困難と思われます。
【過疎化の未来に】
大都市に生まれて大都市で生きてきた人にはあまり実感がないと思いますが、田舎の寂れようは住んでいる者が直ちに対応できないほど急速です。
山中の小集落ではもう氏子がほぼいない所もあるようです。近隣の主要都市に移りすんでも神社のためにわざわざ通ってくる人は今後増えることはないでしょう。
ムスビの継承を怠った結果です。
土地と神(土地神様)から生きるために土地を借りている意識がほとんどないのだと思っています。いや、ほとんどどころか、人の間での取り決めである土地所有の概念により、己の物と思っている土地に感謝することはない状態が正解なのでしょう。
土地は人のものではないのです。あくまでも借り物。現在でも地鎮祭は行われています。その意味もわからず、ただそうすることになっている手間のかかる儀式くらいに思っている人もいるかと。
しかし、人間側がどう思おうが、その土地と神と人のムスビによる繁栄は開始されています。人間側が勝手にほどいてそのままが今の日本人の多くの姿。
これは罪ではありません。ありませんが……(規制)。
ムスビがもう維持できないならば、最後にわずかな期間でもいいからムスビを確かなものとした後、土地を神々にお渡して自然に還さねばならないでしょう。けじめはきちんと、ということです。
その時が令和にやってくるのかまだ先のことなのか、それはわかりません。
【おわりに】
ムスビは難しいことではありません。例えば、神社や昔から大事にされてきた山河を維持する心を持つ。お詣りしたら境内に落ちていたのでコーヒー缶や吸い殻を拾って適切に処理する。氏神様、産土様(土地の自然霊や他所からやってきてそこにいる神霊)が喜んでくださる祭り等に嫌がらずに参加する。
その土地からの実り(これは作物だけでなく、人の創造活動などその場に現れたものもさします)を受けて一部はその土地の神と人へ何らかの形で贈る。この世に生まれた喜びを見守る者へ届ける。
主に心の穢れを祓っていく。
何も私みたいに神社やムスビを考えることに生活のかなりの時間を割くまではしなくていいのです。また、土地を素晴らしくするためにと普通の人がスピ神事(ここでは神職以外が行うムスビの過剰介入を指します)は不要です。一部の人のそうした行いよりもより多くのひとりひとりのムスビが増える方が重要だからです。
自分の気持ちに素直にしっかり生きていくことと、ムスビは両立します。己だけに都合の良い解釈は免罪符ではありません。自分は結んだのかほどいたのか、一分くらいでいいので考えてみてください。それ以上考えると穢れを増加させるかもしれないので😅