ほわほわ神社生活

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神社が暮らしの中にあるおっさんのちょっとだけ変わった日常です。主に岡山県広島県の神社巡りをしています。神社巡りの記録や神社のことで思うことを書いています。

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存在しない権利の主張は誰に向けられているのか?

なんのことかと言えば、自由に死ぬ権利のことです😔 人の寿命は決まっています。自己都合で変えることは明確なルール違反です。記事タイトルは、存在しなくなる=死を選ぶことと、権利としてそもそも存在しないものの両方を表しています。

#あちらと協議の上での変更は絶対にないわけではありません。容易なことではないと付け加えておきます。

目次

 

【自分の命?】

自分の命というものは存在しません🙅‍♀️

 

こう書くと生きているのだから命はあるし、自分の身体だから自分のものだと主張する人もきっと多いでしょう。というよりほぼ全員かもしれません。

 

命は器(身体のこと)を動かすエネルギーのことで、中に入っている存在そのものの力になります。自分とは違う何か命という見えない固まりがあるのではありません。器は各自に貸し与えられているこの世のための道具にすぎません。寿命は器に設定された使用期限をそう呼んでいます。

 

他の存在とエネルギーがあれば道具である器は動き続けることが可能です。飛行機をイメージしてください。機長が操縦しても他の操縦士が操縦を代わっても飛行機は何も変わりませんし、飛び続けます。この場合だと動かしている”自分”は一人ではないのだから自分(だけ)の命は当てはまりません。これに該当する人数は少なくてもそれもシステムだから、自分の命(器)だから自由にできるを根拠にした主張は侵害あるいは越権以外のなにものでもないのです😔

 

繰り返しになりますが、”自分の命”などというものは存在しません。期限付きの道具を内部のものが動かしている状態を生きると三次元限定でそう呼んでいることからの錯覚です。

安楽死尊厳死、自殺】

寿命が来るまで生きないことは全て何かしら問題があるとのことです。上で書いたように、間違っているのは自分の命だから自分に決定権があると思い違いをしていることです。

 

今の人間は自分が思ったことはその通りにならないとおかしいと思い、他人が自分のためにそうしなければならない権利が自分にある、がおかしいと思っていません。

 

そうではありません。車で説明します。

 

あなたはレンタカーを旅行先で借りました。自分が手配したのではなく鍵を渡された車です。長く乗っているうちに細かいトラブルが起こりました。嫌になったのでもう動かないように壊して乗り捨てました。これは全部車を用意した誰かが悪い!

 

この主張は当然だと思えますか?

 

車と人は違うと言いたいのは百も承知です。でも向こうから見たら何も違わない。許されていることと許されていないことは何にでもあるという話です。

 

安楽死尊厳死、自殺は同じようで同じではないそうです。行為と心がどうとか。どう違うのかは書きませんからご自身で考えてみてください。自殺は一言で片づけられる問題ではないのは確かです。

 

追記

一律といいがたい部分まで一律のように最初書いていましたので、一部書き直しましたm(__)m

【この世とあの世の循環】

この世は己が動くことで学ぶ場です。そして場を使うルールが幾つか定められていて、それに則っての行動が求められます。場の維持のために各自に求められていること、これがこのブログで責務とよく書いていることです。

 

本の学校で皆が掃除しているのを見て不思議に思う国もあるらしいですね。これは、日本では皆で維持している世界だと言葉でなく誰でも形で理解できるようにしているのです🙂

 

この世で各自が学ぶ中で果たすべき責務はあくまでもこの世限定です。駅伝のたすきと同じで、自分が終えてこの世を去る時に次のこの世を生きる者へと渡されていくのです。こうして人が巡るのがこの世とあの世の決まりです。

 

寿命前にたすきを放り出したり、無関係な者に渡すとつながらないから正常な進行を妨げます。

 

それはこの世だけでなく、当然ですがあの世側もそうなります。走り終えたランナーの世話とは違うことになりますから。

 

あちら側だけでは大変なためにこちら側の専門家が今も新たに動員されているのが現状なのです。

【結論】

社会は、自分が楽であればいいを越えて自分が楽でなければおかしいまで来てしまいました。楽しみは己が、苦しみはお前がの我良しは神仏の心とは遠く離れてしまっています。

 

自分の命と言いながら、自分の人生(命)を楽な間は肯定し、苦しくなれば否定する。これのどこが自分なのか。

 

途中で終了することの大きな理由である重い病気の苦しさは誰もすすんで味わいたくない三次元の付属物。私も正直に言えばあまり味わいたくはありません。でも三次元にいるから人生によっては受け入れるしかないと思っています。

 

霊のことはいろいろ教えてもらいましたけど、本当はまだわからないことだらけだと思います。あえてこちらにわからないようにしている部分は間違いなくあります。だから主張がお願いにもなり、命令にもなる。その相手が誰なのかを思うととても難しいことです。

 

自由に死ぬ権利はない。それは裏返すと、あなたという存在が否定されていないことでもあります。死ぬのはちょっと置いておいて、ここだけはじっくり味わってほしいです🙂

怒りと碇⚓

この世に生きるものには喜怒哀楽が備わっていて様々な状態を体験できるようになっています。学ぶためですので、しっかり学んでしまえばあとは(常に意識を向けることは)不要です。不要になったものを持ち続けるのは錘にしかなりません。船でいえば碇⚓です。

喜怒哀楽の中で一番問題になるのは怒です。コントロールが難しいのも怒りです。ですが難しいだけでできないわけではありません。どこから発してどこへ向かうのかをきちんと見ていないから難しいと思っているだけです。

 

ある程度まで成長すれば本当はそれに応じてきちんと見えるのです。それが見えない理由は簡単で、見ないからです。怒りを見ようとすると、とても不都合なことと向き合う必要があります。今の人間は特に、わずかでも不快なものを避けるのが賢い、正しいと勘違いしています。

 

不快こそ己を成長させる宝の山なのですが、掘り出すのが大変だから多くの人は嫌がってやろうとしません。なぜなら、己の欠点と向き合う力を充分に育ててこなかったからです。

#普段ここまで言わないのは、難しすぎる環境で時間がかかっている人もこの世には多く、それを責める権利は誰にもないからです。

人間にとって実に楽に何かを成した気になるのが、一見正義に見せかけた”ね流し”です。その主張は怒りなど全くなくても可能です。なのになぜそうするのか? 外部に怒りを出す間だけは内部の怒りを発生させる欠点だらけの己を無視できるからです。これは個人の成長には全く結びつきません。

 

理由はひとつ。怒りはその場に碇を落としてしまうからです。実際の船だと碇を下ろすのは港や泊地といった浅い海です。収めておける綱や鎖の長さの問題もあってそうなります。

 

心の場合は違っていて本人の霊的な成長度によって、この綱や鎖の長さはかなり違ってきます。成長を意識することなく生きている者の長さは短いです。落ちたらすぐに底に着いて長さもちょうどその長さです。動けませんが元々(霊的な)動く気がないので落ちていることに全く気がつきません。

 

反対に、成長を意識している者は落ちても綱や鎖が長いからずるずる引き出されつつ動いていけます。全て出されてからは抵抗で進行方向がやや変わります。ですが長い分穏やかな変化のためにこちらも本人は気がつきません。大きな円を描いてぐるぐる回ります。本人は自分が動き続けている=成長と思い込んでいますけど、実際には同じ段階の体験だけがどんどん溜まっていくだけです。本人が望んでいるような成長は残念ながらあまり望めないでしょう(ずっと先の自分にとっては全く無駄というわけではありません)。

 

碇を上げるのにそこから引っ張ってこれたら楽でしょう。でも動かないようにするためのものだから、上げるには一度碇の上まで戻らないといけなくなるのです。もっとも、一度きちんと気がついたら戻るのはどちらの場合も容易ですからそれはあまり気にすることはありません。

 

と書いた所で上記の否定を。碇を落として走っていると他者が落としている綱や鎖と絡まってしまうのです。ほどけないでしょうから切断になるかと。結局、己の間違いが他者の負担を生んだだけになります。ある程度成長を感じている段階の者がおかしてしまうミスのひとつです。そうなる前に他者から落としていると聴くことは大事です。

 

自分には指摘してくれる存在はいないと思われましたか? 同じこの世の人間からも守護霊からも常に指摘されていますよ(私も頻繁に妹から指摘があります)。

 

ここまで読まれたら、何も心を動かさずにただぼうっとしているべきなのかと思われるでしょうが、それは正しくないです。怒りをそのまま使うのではなければよしです。怒りは気づきのきっかけに使えばいいだけですから。

 

何かに不平不満を言うのは誰でもできます。外ではなく内を変えることに使うべきです。自分から他者への”ね”のリレーはやめましょう。

 

幼くてわからない者は今はまだ仕方ないと思われています。もう一方では、成長してわかってはいるけど、これが自分などと言い訳すると次からはきちんときいてもらえなくなります。誰がきかないのかは書きません。これくらいのことを素直に認められないとそれまでなのです、悲しいことですが。

 

人生航路は決して穏やかではありません。進むための櫂や帆、舵もいれば、時に休むための碇もいります。己がきちんと進むよう努めるのは大事なこと。己という船に備わるものはどうかきちんと使ってください🙂

安仁神社(岡山県岡山市東区西大寺一宮895)

宗忠神社でお詣りを終えるつもりでいたのですがまだ時間があったので、以前近くを通ったのに時間がなくて見送ったこちらの元国幣中社安仁神社へ向いました🚙

 

 

目次

 

【御祭神】

五瀬命 稲氷命 御毛沼命

神武天皇若御毛沼命の三人の兄

 

【御由緒】

岡山県岡山市 | 神社 | 安仁神社

安仁神社|岡山県神社検索|岡山県神社庁

安仁神社 - Wikipedia

最初は公式サイトです。

 

【安仁神社への道】

西からだと岡山県道28号から右折して同県道234号へ、1.2キロくらい走って写真の場所で県道235号へ進みます。

#28号を東西どちらから来ても交差点手前の案内標識で234号宝伝と示されているのでわかりやすいです。

700メートルくらいで道沿いに注連柱が立っていて案内がありますからすぐにわかります。

注連柱の間を通る道

その間を200メートルほど進んだ左側に未舗装の広い土地があって、ここが駐車場です。

今まで通ってきた道の先はそのまま社号標や狛犬のある参道となっています。

 

岡山県道397号(岡山ブルーライン、2004年に無料化)の西大寺、瀬戸内、邑久の各インターチェンジから南へ向うのがわかりやすいかもしれません。下りた先の道の一部はセンターラインがないようなので、事前にどこで降りてどの道が広いかを一度確認しておけば安心できますね🙂

 

【👩‍🦽車椅子使用の方のための情報】

自動車参道らしきものは一応ありました。が、関係者以外通行不可なので勝手に上がるのはダメです🙅

駐車場から自動車参道になって100メートルくらい坂道が続きます。車椅子の方は実際にこちらに来る前に社務所に問い合わせをされてはと思います🙂

 

狛犬がいる参道入り口の右に農家の方が通る道があります。

本殿裏にはどこからか不明ながら道が繋がっていました。

歩いて確認していませんが社頭右の道を進むと社殿まで来れるのかもしれません。しかし、グーグルマップで見るとかなりの距離がある上に幾つか分岐していて迷いそうです。また、山道は猪や猿、鹿に出会う危険があります。車椅子では逃げることができないでしょう。試しに進んでみることは全くおススメできません🙅

 

 

【境内の様子】

安仁神社参道入り口(社号標と備前焼狛犬

一の鳥居

二の鳥居

隋身門

参集殿

随身門と参集殿を石段上から

石段を上がった所から

拝殿

拝殿斜めから

本殿

本殿を取り囲む樹々と山の斜面の間

本殿横から前方を

境内社(右補神社) 境内社は本殿周囲に左右対称に配置されています

境内社荒神社)

境内社(稲荷神社)

境内社(左補神社)

後方の山際にある遥拝所のうち二つ(出雲大社

瀧神社遥拝所

神水(令和四年に出なくなったとのこと😥)

石段を上がった所にいる狛犬

正面参道入り口の備前焼狛犬

 

 

【おまいりをおえて】

牛窓より少し西の田んぼが広がるのどかな地に安仁神社はありました。岡山市街からかなり離れているためか、旧国幣中社にしては午後は参詣者も少なくてじっくりお詣りできました。春はツーリングでのんびりお詣りすれば楽しいでしょう😀

 

参道の玉砂利がとても綺麗に整えられているので足跡を残すのが少々ためらってしまい、石と砂利の境を歩きました😅 建物のある土地は綺麗に掃除されていて、参道と合わせて清らかな土地であることを示しているようでした。

 

参道を歩いて鳥居をくぐり緩やかな坂道を社殿へ向かうとすうっと静かに気の感じは変化していきました。本殿周辺はいっそう清々しい気だったと思うのですが、急な変化を感じずに歩いていたのでわかりません😅 たぶん、常にじんわり変わっていたのではないかと思います。本殿そばは柔らかな圧力のようなものは感じていました。

#その日によって受ける感じは違うはずです。あくまで個人がその時はそう思ったにすぎません。

 

御祭神はあまり他所ではお目にかかれない三柱の神々でした。瀬戸内には神武天皇を祀る神社はそこそこあるのですが、鵜葺草葺不合命の他の皇子を祀る所は初めてです。神武天皇もそうですが実在したかどうかは考えても仕方ないことです。大事なのはそう呼ばれる存在を神社で意識するかしないかではないかと。

 

自分が理解できるか(目に見えるものだけ)を基準にすると澄んだ気持ちにはなりにくいと思います。相手とどうするかではなく、己がよいエネルギーをどう生むかをご覧いただくのであれば、御祭神の名前は問題にはならないでしょう。

 

まあ、こう書いていますが私個人は神武天皇実在を全く疑いもしていないし、他の皇族の方も同じです😅 他にも特定の女神様には少し態度が違いますし。細かいことは抜きで御祭神様と神社にいる自分を楽しんでいます。

 

式内社(明神大社)、旧備前国一宮で旧国幣中社、そして現在は別表神社と、歴史の長さを感じさせる安仁神社は良い山の気が保たれている綺麗ないい神社でした。

宗忠神社(岡山県岡山市北区上中野1-3-10)

今村宮の次は宗忠神社です。教派神道の神社へのお詣りは初めてだったのでどんな所だろうと興味津々でお詣りしました。

#別の白髭宮だったようで一部削除しましたm(__)m

 

目次

 

【御祭神】

宗忠大神(黒住教教祖黒住宗忠)

【御由緒】

大元 宗忠神社|岡山市大元にある古木に包まれた神社

興味のある方は↑の公式サイトをどうぞ。

 

【宗忠神社への道】

岡山県道21号沿いにあります。国道2号岡山バイパスから降りて米倉交差点を北へ向けて曲がり、道なりに約2キロ北上した左側です。西から国道162号で来たら、北から来る県道236号と東からの県道21号が交わる野田西交差点を右折して約1キロ南へ進んだ所です。東からだと同じく野田西交差点を左折して県道21号で南へ向かいます。

駐車場は鳥居を挟んで境内の端の方(左右)にありました。歩道を人が歩いていますから入る時もそうですが、駐車場から出る時は充分に気をつけてください。

 

第一駐車場入り口(県道21号で北側の方)

第二駐車場入り口(県道21号沿いの南側の方)

第二駐車場

ナビによっては山裾の神社はピンポイントで案内してくれないことがありますが、宗忠神社はさすがに案内してくれるでしょう。駐車場も日曜でも止めることができましたから、平日なら心配することはないと思います。

 

自動車以外にJR岡山駅からバスで宗忠神社前で降りてお詣りできるそうです。宗忠神社前の案内標識はこんな感じです。地図で探すと、鳥居前から真っすぐのびている東西の道を進んで100メートルほど離れた場所に宗忠神社前と書かれたバス停がありました。

【👨‍🦽車椅子使用の方のための情報】

アスファルト舗装された第二駐車場から歩道を50メートルくらい進んで鳥居をくぐった先の境内は完全に平らでした。第一駐車場は未舗装ですが社務所横の参道を通って拝殿前に行けます。写真の手前側が拝殿前になります。

拝殿前には石段がありますが、端っこに板が置かれてあり、巨大賽銭箱前でお金を投げ入れて鈴緒を振ることもできると思います。

いつもは車椅子は押してもらう前提で書いています。ですが、こちらの大元宗忠神社は一人でも自由に移動できるでしょう。街中(平地)にある神社でも道から数段上がって玉垣の内へということが多いです。街中の誰でも日々の暮らしの中でお詣りする神社で段差がないことは自由に歩ける人にとっても危険がなくなるのでいいことです😃

 

さらに驚きの設備が! なんと昇殿参拝のためのリフトがあるのです😲 

作業現場にある大きな廃材入れに見えることのないようにか、何枚も案内が貼ってあるのに感激です😂

神様への思いを障碍が妨げてはならないと思っているので、感銘を受けましたm(__)m 本当に素晴らしいことですね😊

 

 

【境内の様子】

宗忠神社社頭

手水舎付近からの社殿

拝殿

拝殿後方から

本殿

高弟社

高弟社由緒看板

境内社天満宮

天満宮由緒看板

境内社(住吉宮)

住吉宮由緒看板

手水舎(奉納された鉢の由来についての看板があります)

備前焼狛犬

高弟社奥の樹に隠れた大きな狛犬

【おまいりをおえて】

第二駐車場から鳥居までは50メートルくらいありました。どんな所だろうとドキドキしながら鳥居の前まで来て参道向こうの拝殿(と銅板葺き屋根の色)を見て一気に気分が高揚しました😊

 

境内はポツポツと人が出入りしていました。家族で晴れ着でお詣りしている姿も目にしました。いつも人気のない神社ばかりお詣りしているとこうした光景は嬉しいものです。

 

拝殿前の左端でおまいりしたらそこに作法に関するこんなものがありました。

神社神道の二拝二拍手一拝(礼)とは少し違いますね。もっとも、私はいつも祈念の前後で二拍手しているので違和感なかったです😅 神社神道の神社でも独自の作法の所はいくらでもありますから、あえて教派神道らしい所を見つけようとすることは不自然でしょう。

 

結論を書くと、宗忠神社は参詣者にとってはごく普通の神社でした。人間を神として祀る神社は明治になって各地にできましたから、特別変わったことではありません。

 

境内社天満宮や住吉宮といったおなじみの神社です。黒住教の知識がないとダメということは全くないと思いました。岡山の人間なら郷土の偉人にご挨拶くらいの気持ちでお詣りすれば充分ではと。

 

このブログはお詣りの記録の他に道徳的(霊的)なことも書いています。というよりはそちらが本体になります。神社にお詣り(御祈祷を受ける)する以外の向き合い方を考えると、それはその人だけの教派神道なのかもしれません🙂  違和感なく楽しめたのはそうした理由かもと思いました。

 

鳥居をくぐって参道を進み手水舎まで来ると急激に気が澄んできました。本殿からは何かの力が打ち寄せてくるのを感じました。

#いつも書いているようにあくまでその日個人が感じたことにすぎません。他の方は全く違うかもしれません。

 

神社なのですけど、澄んだ軽さもありますが、お寺でよく感じるような包み込む穏やかな雰囲気だなと思いました。御祭神の人柄が神気となって境内に満ちているのかもしれませんね😌

 

写真でもわかると思いますが非常に綺麗に清掃されていてゴミ、落ち葉が参道にありません。こうした空間にいると自分が清められていくような気がします。

 

大元宗忠神社は岡山の人に愛されているのがよくわかる綺麗ないい神社でした。

今村宮(岡山県岡山市北区今4-3-5)

二社目は黒住教教祖黒住宗忠と関係のある旧県社今村宮です。白鬚宮からは1キロくらいしか離れていないので移動は楽です。

 

目次

 

【御祭神】

天照大御神 八幡大神 春日大神

八幡大神応神天皇神功皇后宗像三女神春日大神武甕槌神、斎主大神(経津主神)、天児屋大神、比売神の総称と境内掲示板の貼り紙に書かれていました。

【御由緒】

今村宮|岡山県神社検索|岡山県神社庁

長いのでリンク先を見てください🙏

【今村宮への道】

碁盤の目のような住宅地のためにどう走ればよいか文章にするのは難しいです。白鬚宮からだと県道244号を約400メートル南へ進み、小学校の横を通って交差点を左折して600メートルくらいで今村宮付近です。

 

岡山県道21号からだと宗忠神社の北側の通りを西へ進むと500メートルくらいで今村宮です。ナビをセットして案内してもらってください。

【👩‍🦽車椅子使用の方のための情報】

今村宮には駐車場が二か所ありました。

上から入って参道そばの辺り

上の写真、玉垣北側にあるJA今支所から道を挟んだ所と鳥居向かって左側です。

どちらも5台程参詣者用のスペースがありました。月極駐車場も同じ場所にありますので駐車位置を間違えないようにしてください。参道そばが参詣者用です。

駐車場からそのまま正面参道へ進めます。気になるような段差もなかった(と覚えています)です。門のそばにある橋にわずかな段差がありますが大丈夫だと思います。

 

参道は社殿をぐるりとまわっていて幅も広いので車椅子で境内社を巡れるはずです。

 

今村宮は車椅子の人にも優しい神社だとお詣りして感じました🙂

 

 

【境内の様子】

今村宮社頭

一の鳥居と扁額

表門(お名前はボカシ処理してあります)

隋身門(神社からの各種案内の紙が貼ってありますので読むべきです)

拝殿前から境内を

拝殿正面

拝殿斜めから

幣殿?

本殿(昭和三十年に岡山県重要文化財に指定されたそうです)

本殿後方から

本殿裏の境内社

本殿裏境内社群(稲荷神社)

稲荷横から

境内社木野山神社)

神池近くの境内社(七宮神社)

北側駐車場入り口そばの境内社(塞神社)

神池(お名前はボカシ処理済みです)

随身門大臣像

狛犬(拝殿前)

狛犬(参道)

木野山神社備前焼狛狼

 

【おまいりをおえて】

氏子総代さん達でしょうか、藤棚らしきものの手入れをされている日にお詣りしました。人が神社のために働いている姿を見るのは実にいいものです😄

 

玉垣内外で変化はありましたがそれほど極端なものではなかったです。一の鳥居をくぐって正面参道を歩き、表門まで来るとすっと気の感じが変わりました。

 

とてもすっきりした気に満ちている境内でしたが、拝殿横を通って本殿裏まで来ると気は鮮烈と言っていいほど鋭く澄んだものになっていました😮 本殿からは体がじーんとする気が放射されているように感じました。今は民家で囲まれている山や川から離れた平地でこんなに素晴らしいとは、ネットで写真見ている時には予想もしませんでした。

 

神池はお詣り時は澄んでいるとまではいえなかったですが、隋身門内側(掲示板)に貼られている紙の中に神池清掃がまだと書かれているのに帰宅後写真を見て気がつきました。池がもっと綺麗になったらさらに良い状態になるはずと期待に胸が高鳴ります😃

 

境内の気が素晴らしいのは今も宮司さんや大勢の氏子の皆さんに守られていることも理由でしょうし、黒住宗忠のような神主が過去に奉仕していたことも理由なのかもと思いながら長時間境内をウロウロしていました。境内社は全部で二十社ほどあるようです。きちんとご挨拶するとかなり時間がかかります。

 

今村宮は、明治政府の宗教政策を調べると必ず出てくる神道十三派の内のひとつである黒住教の教祖の家がかつて代々神主だったことから、どんな神社か興味を持つ人もいると思います。写真でも良い神社なのは伝わると思いますけど、ぜひ実際にお詣りして日本人と神との関わりをもう一度考えてみてほしいです🙏

 

今村宮は昔から岡山の多くの方に大事にされてきたことがよくわかる綺麗ないい神社でした。

白鬚宮(岡山県岡山市北区中仙道182)

岡山市の真ん中辺りで三社を巡った中の一社めは白鬚宮です。鳩🕊がたくさんいる癒しのスペースです。

 

目次

 

【御祭神】

猿田彦命 天照大神 素戔嗚命

#由緒看板や県神社庁白鬚宮ページには猿田彦命。境内の記念碑には天照大神素戔嗚命の名も刻まれています。

【御由緒】

白鬚宮|岡山県神社検索|岡山県神社庁

勧請は応永八年(1401年)ということで、600年の歴史があるそうです。

【白鬚宮への道】

岡山県道162号と国道180号の西長瀬交差点から400メートルほど東へ走った所にあります。国道180号は国道2号から分かれて北上するルートだと2キロくらいで県道162号(旧2号)まで来ることができます。

 

岡山駅側(東)からだと日産のお店を過ぎて162号から左折してすぐに神社ですが、西から来るとその手前にあるセブンイレブンの看板が見える交差点で右折して一本下の道を左折。次でまた左折すると社頭(神社駐車場入り口)に着きます。

特に難しいルートでもなく、道も充分な広さがあるから安心してお詣りできる神社だと思います🙂

 

有名な古書店万歩書店さんがすぐ近く(県道162号で約800メートル西側)にあります。こちらに買い物に来たおりにお詣りされてはどうでしょうか。

【👨‍🦽車椅子使用の方のための情報】

駐車場は鳥居を挟んで左右に入り口があります。

合わせて8~10台程度とめられそうでした。

境内の一部なのでアスファルト舗装ではありません。3月3日は日曜のためか、一台帰るとまた一台やって来る感じでした。駐車台数によると思いますが、車椅子を降ろす幅は確保できるのではないかと。

 

境内はコンクリートで参道が作られています。幅は車椅子でも一部境内社を除けば充分あると思いました。鳥居の下と拝殿前に低い段差があります。前を少し持ち上げるようにして乗り越えることはできるくらいだと思います。

 

駐車場からは参道に乗るためにわずかな段差を乗り越えることになりますけど、低いので押してもらうには特に問題にはならないはずです。お詣りは充分に可能な神社でしょう。

 

 

【境内の様子】

白鬚宮社頭

随身

拝殿正面

本殿

社殿全景

本殿後方から

境内社(天神社)

境内社(稲荷神社)

境内社(若宮)

境内社牛頭天王社

境内社(弁財天宮)

境内社(不明)

随身門左右大臣

狛犬

記念碑

 

【おまいりをおえて】

縦横50メートルくらいでしょうか、それほど広い境内ではありません。そのぶん、凝縮された感じになっています。車椅子でお詣りされるなら境内社を巡るのにちょうどよいのではと思いました。

 

鳥居をくぐった途端ではなくじんわりと良い気に変わっていく感じの参道でした。境内全体に柔らかな気が満ちているように思えました。本殿そばでも風が冷たいのですが、それ以外の暖かさがわかりました。

 

人によくなれた鳩達がたくさん歩いていて、境内の気とあわせて和やかな神社だと思いました。特別な日にお詣りというよりは、日頃暇があれば鳥居をくぐるのに非常にいい神社でしょうね。

 

日曜以外の理由が何かあったのかはわかりませんが、参詣者は私一人ということはなく、誰かがお詣りをすませたら別の人がやってくるのでした。篤く信仰されている神社なのだなと思わされます🙏  

 

境内、とても綺麗に保たれているのが入ってすぐわかります。

 

他にお詣りした神社もそうでしたが、天神様の境内社そばに梅が植えられているのは気持ちを穏やかなものに変えてくれますね😊 春のお詣りの楽しみです。

 

大通りを走行中はっきり見えないために知らない人が多いのかも(私もよく走っていたのに知りませんでした)しれないなと思います。白鬚宮は駐車場の心配をしなくてすむお詣りしやすい綺麗ないい神社でした。

いろいろなことをまとめて一記事に

書いていない神社がいくつかあるのですが、確認しながら書く時間がないためにいろいろなことをまとめて。

 

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1.以前書いた草薙剣のこと。

あれから一か月経ちましたが……誰も授けた者がおらんそうで。まあ無理もない話ではあります。さすがに気軽な気持ちでとはいかないのでしょう。内容が内容ですし、どこの馬の骨かわからん人間の書いた記事ですから。

#あちらの情報は己自身で判断しないといけません。

 

神々はクレクレ君でない者を待っておられるので、”他者のせいにしない者”や”むさぼらない者”はきちんと把握されています。つまり、神前でだけは素晴らしいことを話す人間は放しておかれます。

#読者の皆さんがそうだというのではなく、多くの日本人がそうなってしまっているのです。

 

個人向け草薙の剣は所持を自慢するためのアクセサリーではありません。苦難前提で人生をとらえ、それに負けない勇気がなければ竹光と同じでいざという時、何の役にもたちません。

この世とか人がいる意味とか、そこからの話のようです。

 

剣はいくらでも用意はできるそうですので、授かる喜びを味わえる人が現れて続くといいなと思います😃

 

 

2.桃の節句(雛祭り)🎎は日曜日だからお詣り

三日が日曜日。私は和菓子を買ってお茶を用意してお詣りしようと計画しています😁

女神様が主祭神の神社をおススメします。数が少ないためにおススメはできませんけど、歴史上の人物(女性)が祀られている神社もいいでしょうね。

 

神職が常駐する神社にはお菓子をお供えしていただけるように社務所でお願いしましょう。誰もいない小さな神社には自分でお供えして、自由参拝後におろして、お茶を飲みながらいただきましょう。

#境内飲食禁止は常識だと言われる神職もおられるでしょう。民の素朴な直会まで全否定されるとは思いませんが、社殿そばで食べているのを誰かに見られては問題になるかもとは思います。ベンチなど休憩の場がなければ、車まで戻ってから。歩きでの参詣なら玉垣を出た所で一礼していただけば特に問題にはならないのではと思います。

 

大きな神社だとすぐにおさげされないと思います。そのため、自分用にひとつ別に用意してそれで一人直会といきましょう😋 小さな神社とここからは同じですね。

 

桃の節句とか雛祭りとか書いてますが、お詣りのための単なる口実です😅

 

3.塩崎神社のこと

先日福山市の神社が火事で社殿が焼け落ちました🥲 以前お詣りしようとしたけど駐車場が見当たらなくて周囲を走って帰りました。もう社殿を眺めることはできません。氏子でも崇敬者でもないものでも、ただただ悲しい気持ちになりました。

#こちらは公式サイト

塩崎神社 - 塩崎神社は、深津村(現福山市東深津町)に鎮座する塩﨑神社の御神霊を勧請して、工事の無事の安全を祈り、創建されたのが始まりとされています。

 

今は境内に入った所で自由参拝するようになっています👏🙏

 

この賽銭箱が人の想い(と賽銭)で一杯になるように願っています。

 

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諏訪神社(岡山県小田郡矢掛町下高末2896)

ストリートビューで雰囲気の良さそうな神社だと思っていました。写真を見ると社殿がまだ新しいようで、綺麗なうちに見ておきたいとお詣りしました。

 

目次

 

【御祭神】

御名方命 八坂入姫命

八坂刀売神の妹とのこと。御祭神としてはこちらの神社だけだそうです。

【御由緒】

諏訪神社|岡山県神社検索|岡山県神社庁

#写真はありませんが社殿には由緒看板があります。

諏訪神社への道】

国道486号から赤色の鉄橋のある矢掛町西町交差点を北へ向かって岡山県道35号を走ります。4キロ少々? の所、道の左側を流れていた美山川が道の右側に来た付近です。

 

北側からだと県道35号は高梁市からしばらく走った所、成羽町市街の東外れからこちらへ下ってこれます。

総社市岡山市吉備津神社辺り)からは県道80号を西へ進んで県道35号とのT字路を南へ向かうとすぐのようです。どのルートも片側一車線の道なので何も不安なく走れるはずです。

 

【👩‍🦽車椅子使用の方のための情報】

参道入り口にはポールが立っているので車を入れることはできません。南側に玉垣内への入り口があります。ただし、ロープが張られています。県道から玉垣への道幅はミニバン二台分は楽にありましたので、今回は端に寄せてとめました。ドアを開けて車椅子を降ろすのも可能だと思います🙂

 

岡山県神社庁諏訪神社のページを読むと、駐車場20台と書かれています。お祭り時にはロープを外して中にとめるのではないかと。

 

ここからロープの横を通って車椅子で中へ入れそうでした。集会所前の土地を奥へ進んだ所に坂道があって社殿のある一段高い場に行けます。

ですが、坂道途中にチェーンが張られていました。車の進入禁止のためでしょう。車椅子で通る時には外せば上がれるでしょうけど、管理者が張ったものを一時的にでも勝手に外すのはダメだと思います🙅

 

集会所と玉垣の間か、鳥居前の参道(うっかりポール間の幅を測るのを忘れました)を進んで境内へ入り、右端の道? を上がっても社殿のある土地へは行けそうです。

上の段差

ただし、低い段差があります。5センチ程度? はある感じでした(泥との境が一定でないために高さは変わります)。押してもらって乗り越えるのは難しくはないでしょう。段差以外は無理なく押してもらって上がれそうな緩い坂道です。神輿庫? の裏から社殿へ行けます。

石段を回避することは可能な造りの神社です。

 

【境内の様子】

諏訪神社社頭

玉垣内へ

鳥居

随身門(と社務所?)

本殿正面

本殿斜めから

神輿庫? 辺りから

神輿庫?

境内社荒神社?)

境内社(御崎神社?)

御神木

随身門左右大臣

狛犬

 

【お詣りをおえて】

目の前を美山川が流れる山裾にある神社です。瑞垣との間には小さな神池(堀)もあります。鯉や亀の姿はなかったです。境内社に合祀されている中に水分神の名もありました。水と無縁な神社ではないようです。

 

県道からの正面参道はごく普通の感覚のままです。玉垣の内側、狛犬の間からゆっくりと気が変化します。その次にある左右の樹を過ぎるとやや変化の度合いが急になりました。この樹々も注連柱のような役割をはたしているのかもしれません。鳥居の向こう側から隋神門までは玉垣外と比べるとややすっきりとした空気を感じました🙂 

 

随身門を抜けるとさらに一段と澄んだ気が満ちていました。これらの変化は玉垣を出た方がわかりやすいでしょう。数歩で下へ降りてくるような重さになりますから(普通の土地の感じで、別に悪い状態ではありません)。

 

社殿横では穏やかな風のような力に思えました。実は疲れた後で思い出して慌ててそばに行ったからあまりよくわかっていません😅 忙しかったため、久しぶりの他所へのお詣りで、いつもの手順を忘れていました。

 

風が吹いた後のためか少し杉の枯れ枝が落ちていました。清掃はきちんとされている神社なのはすぐわかりますから、清掃のタイミング次第でこうなってしまうのは哀しいです😥 いくらしても杉の枯れ枝はすぐ落ちてきますから。これで悪い評価をする人がいませんように。

 

他の神社では拝殿に当たる建物がありません。ひとつある社殿の造りは完全に本殿です。面白いのは、二柱の神を祀るためか、同じ大きさの扉が二枚あるその前に階段があることです。普通は扉が中央にあるので階段もそうなっていますよね。

 

こちらの諏訪神社は各部が新しく清々しい綺麗ないい神社でした。

初午で稲荷巡り🦊

今日は休日だったからのんびり詣るはずが具が貝だったので大急ぎで五社巡ることになりました。

 

今年のいなり寿司はこちら↓

 

どんと入っているのはカキです。カキの炊き込みご飯を油揚げに詰めたものです。見た目を美味そうにとか全く考えていないのでこんな感じに😅

 

でも揚げが白いのです(作った人間の好みで、私の好みではないです)。味が薄すぎで😑 せっかくお供えするのに「味無くて不味いです」と言いながらお供えするのはダメですね。どんよりエネルギーのトッピングはいらんです。またいつかお詣り時にお詫びするつもりです。

 

車内温度が上がるためにいなり寿司はホカホカ。カキがいたまないように急いだわけです。直会(車内で食べる)は揚げが不味すぎるから持ち帰って揚げを外して食べました。中のご飯はカキの旨味でそこそこでした😋

 

節分と初午がおわると雨水まではすぐ。梅の花も境内で咲いています。美しいものが美しくある間に楽しみましょう。

波と慈雨の祓いの意味するもの

妹から聴く神社ネットワーク管理者の実態。おそらく今まで語られたことのない現代のおとぎ話。

 

a-wi.hatenablog.com

 

目次

 

【神社ネットワーク管理者が持つ力の詳細】

神社ネットワーク管理者が持つ力は物理次元(ここでは三次元のこの世のこと)に物理的に作用するものではありません。神仏が上の次元から三次元へ流す見えない力と反対にこの次元から上への還流がその力🙂

 

人であれ神仏であれ、その存在が霊的な成長に応じて発揮(放射)する力は増大します。物質にのみとらわれている者の発する思念(放射)に対して、ある程度悟った物質への執着が薄れた者の思念の力は遥かに強力。それでも数千倍とか他の事で日常生活で目にするくらいには現実的な数値。

#この時点でおかしいと思われるのはわかります😅 この後、さらに驚くことになります。

 

それに対して神社ネットワーク管理者(一人ではないとのこと)の持つ思念の力は人によって違うものの、軽く垓倍とか正倍に達するそうです。そのまま信じることのできない話ですね、こうなると。でも、それくらいでないと、土地に今まで積み重なった因果を無視して強制的に吹き飛ばすことはできないのだそうです。

#イヤシロチ再生は簡単でもケガレチはその力をもってしても一度では困難だとか。

 

上でケガレチと書いているのはネガティブな念が積もりに積もった溜まり場。人がどうすることもできない悲しみの念を発してしまう場がいろいろあります。これは人が作り出したものだから人の手で解消しないとダメなものです。ですが、今の世ではとても困難だと。霊的に生死の仕組みを納得していたら発する念もそこまで強くはなかったと思いますが、これは魂の年齢差で仕方ないことかもしれません😔

 

三次元の人間が存在することで常に放射する範囲(場)は平均的な成長段階にある人で半径約2メートル程度とのこと。神社ネットワーク管理者の中には自分を中心に置いた時に1平方キロメートルをすっぽり覆う存在もいるとか。思念の力において人間の域はとっくに超えているのが神社ネットワーク管理者達です😮

 

その力の源泉は自身の意識と”〇〇”です。

 

【波の祓い、慈雨の祓い】

思念ゆえにその世界において放射は自在にコントロールできるもののようです。例えば、祓い清めるのに神道では水が重要なように、思念で洗い流すのを得意とする管理者がいるそうです。

 

水は波となって一切を洗い流すこともあれば、降り注ぐ雨となって穢れを溶かし込むこともあります。

鏡のような水面に投げ込まれた小石が周辺に波を作って広げるように、神域で己から拓く放射で穢れを押し流すことも、乾いた大地を潤す優しい雨のようにエネルギーを降り注いで変えていくことも自由自在。神域の広さや状態に応じて適切に対処するのだとか😮

思念は時空を超越するので直接現場となる神域を訪れることもなく、必要なら自宅から清めの線状降水帯を出現させることで無数の神社を繋ぐエネルギーの道をかなりの広範囲で整えることも可能とか聴くと、人間の役割はなんだろうと思うことでしょう。それについては最後に書きます。

 

【終わりに】

神社ネットワーク管理者は人間がもう少し我よしを抑えて進んで行ったなら生まれることのなかった(必要なかった)存在だそうです。世の祓い清めだけなら神社ネットワーク管理者チームだけで可能なのかもしれません。ですが、それでは他の人はどうすればいいのでしょうか? なぜ存在するのでしょうか?🙄

 

三次元は三次元にいる人間に任されている以上、一人残らず責務があるのです。一人分は微々たるものです。でも大勢が背負わないというなら高次元の管理者権限でなんとかしないといけなくなる。ただそれだけのこと。

 

そんなことを言われてもどうしたらいいかわからない? 借りた側がすることは、この世に来た時よりも美しく。たったこれだけです、いつの世も😑

#めざしたがダメだったというのとめざすことをしなかったのは天と地ほど違います。分担を処理することと人生を楽しむことは両立します。よって言い訳は通用しないのです。

 

美しくは物心共にです。ゴミ拾い結構。誰かが執着に苦しんでいたらそこから抜け出せるようほんの少しだけ手をかすも結構。より美しくはより明るくで結構。

 

我よしが出す放射よりも皆よしの放射の方を上回らせたらたぶんそれでいいのでしょう😌

 

でも今は全体として全く足りないのが哀しいですね😥

 

少しでも流れを変えていきましょう(生きましょう、行きましょう)。