ほわほわ神社生活

ほわほわ神社生活

神社が暮らしの中にあるおっさんのちょっとだけ変わった日常です。主に岡山県広島県の神社巡りをしています。神社巡りの記録や神社のことで思うことを書いています。

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注連縄のような、生活から離れたものはすぐにはできないですね。

昨年、縄をなうことはかろうじてできるようになりました。といっても、稲藁の長さだけでした。祠用なら二尺もあればいいから、太い束でなえばなんとかなるのかもしれません。

 

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が、神社用となると長さが必要になります。六尺とか八尺くらいはいるのかな? となると継ぎ足しながらなうことができないとおしまいです😥

 

今年は一応継ぎ足すことができて、長さはちょうど六尺くらい。長さはクリアしました😆 でも急に細くなってしまいました😫 適切な藁を適切に混ぜて太さもコントロールしないとダメなのですね。これは練習で感覚を掴まねばならないです。それができたら注連柱でも祠でも元のもののように形は真似られるはず。

 

そこまで自由にできて初めてその神社特有の注連縄を作れるようになります(たぶん)。まだ遠い道のりです。

 

なんでも習い事はある程度までは集中して取り組まないとダメでしょう。ですが藁束がないのですね。今は天日干しをする農家さんは少なくなって稲藁を目にしません。ホームセンターにも必ずあるわけでもないのが困りもの😑 

 

一応、今回の余り物を練習用に使えますから十本くらい? は作れそうではあります。

 

実家が農家で藁束に子供の頃にふれていたり、縄のない方を教えてもらった人は高齢の人だけになってしまったのかな。日常生活で必要でなくなると維持するのは難しいですね。次世代へつなげられるように頑張って体に覚えこませないと😤

 

世の中には、できる人に任せていればいいという考え方があって、それは間違いではないです。でも、皆がそう思うとそれは不可能なことに。結局、奪えば道は行き止まりに、与えれば道は続くと……注連縄作りから無理やりに説教に持ち込むいつもの記事なのでした😅 ふはははは。

黄色と茶色の恐怖

毎年恒例になってしまった黄色記事に新たに茶色もプラス。熱中症の心配なく、ピッタリのタイミングでお祭りに遭遇したりと楽しい季節ですが危険は避けましょうの記事です。

 

目次

 

【黄色のアレ】

正確にはオレンジでしょうか。オオスズメバチがそうですが、キイロスズメバチは黄色の方に近いかも。神社社叢(特に参道は)杉? 桧? のことが多いのでそうした所には餌がいないから(巣がなければ)スズメバチはいないでしょう。それ以外の落葉樹にはいるかもです。この時期はまだ増える分の餌がいりますから。

 

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山の中に鎮まる雰囲気の良さそうな神社をネットで見て自分も行ってみようと出かけたのはいいが、そこにはスズメバチの巣があった😱……だと落ちついてお参りできませんよね。だから、いる前提で刺激しないように白っぽい帽子を被ったり、香水等つけないようにしないとです。安全に楽しく神社をあとにしたいですよね😄

 

【茶色のアレ】

今年の追加色は独特の紋を持つアレです。先日、ガレージ内に置いてある段ボール箱(道具入れ替わり)を掃除のために手前にずらしたら、そこにこげ茶色の太い縄が⁈

マムシでした🐍

手を向こう側にまわして引っ張っていたら噛まれていたと思います😦 巳様と縁があるけどやむなく……しました。隙間に逃げ込まれて後日訪問者が万一咬まれては困るので。後味は悪いです。

 

山の中で清水が湧いている所に水神様の社があることは多いです。マムシは水辺の落ち葉の上にいることもあります。マムシを見慣れている人は、視界の端に入ったら何か違和感を覚えて見直して発見できるかもしれませんが、都市に住んでマムシを見たことがない人は保護色だから気がつかないで射程に入ってしまうおそれがあります。秋は昼間にも活動するから遭遇確率は上がります。

 

マムシはシマヘビのように人の気配で即逃げるヘビではないです。そのままじっとしています。神社巡りで草むらに入ることはまずないと思いますので、足元をよく見て一歩一歩慎重に進めばそうそう咬まれることはないでしょう。

 

山道を歩く神社には長靴が安全ですが歩きにくくて疲れるし、見た目は悪いですね、晴れた日には😅 お参りの間だけなので車を降りる時に履き替えましょう。バスや電車利用の時は我慢して安全な神社を選んでお詣りしましょう。秋の気温が高いので、いつ見かけなくなるかはわかりません。私の経験ではさすがに真冬には見ません。

 

【結論】

神社巡りは楽しいものですが、人が日常生活する場ではありません。田舎の山中の神社では一日誰も来ないことも普通でしょう。町中とは違うという意識を持って安全に楽しく神様ご眷属様とお付き合いしていきましょう😆

安那明神社(広島県福山市神辺町三谷200)

深安神社巡りの15番目の神社です。消渇神社よりも北西の山中にあります。消渇神社への道が太ければ時折お詣りしてお姫様と話したいところですが細い道にいつも躊躇😥 で、今回は前を素通りしてこちらの神社へ向かったのでした。困った時の深安神社巡り😆

 

目次

 

 

【御祭神】

 

天津彦瓊々杵命 大己貴神 事代主神

 

【安那明神社への道】

広島岡山県境にあるので広島県側と岡山県側の2ルートを。西からだと国道486号の神辺町内新徳田2丁目東交差点を左折して広島県道390号を北上します。道なりに走って3キロくらいの所(右に入った所)に以前紹介した中条八幡神社があります。

 

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そのまま約1.5キロ北上すると緩い登坂になり、少し山に入った辺りから急坂が続きます。車はともかく、原付ではやっと登っていく感じになるかもしれません。登りきるとそれまでよりやや緩い下り坂です。300メートルくらい下った所(左側)に車一台幅の道があって、神社巡りの看板が立っています。下の写真は反対方向からの物です(こちらからしか撮っていないのです)。

神社まで250メートルなので対向車と出会う心配はまずないかと。神社前はすれ違うことが可能です。

 

東側からだと旧313号から県道103号を高屋川に沿って奥へ入っていきます。今は多くの車は少し南の現313号を走るでしょうからナビに従って北へ向かってください。途中にこれも以前紹介した高屋八幡神社があります。

 

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ここから800メートルほどで消渇神社への分かれ道がありますが、今回はそのまま直進します。

 

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基本的に片側1車線の道ですが、所々に30メートル程度がセンターライン無しの幅になりますから、気をつけてください。たまに付近住民の方の車とすれ違います。1か所だけ100メートル少々? 細くなる以外は緊張する道ではないと思います。

消渇神社への分かれ道から4キロあまり、福山市の標識から500メートルくらいでこんな大きな三叉路がありますのでここを左折して緩い坂を上りだすとすぐに右側に深安神社巡りの看板があります。

 

【車椅子使用の方のための情報】

鳥居前に2台くらいとめられるスペースがありました。

コンクリ舗装の参道が拝殿下まで延びています。社殿へは石段を上がるので車椅子では拝殿を見上げるここまでになります。直接鈴緒を振ったりお賽銭を箱に入れることはできませんが、お参りとしてはきちんとできる神社です。

#深安神社巡りスタンプはありました。賽銭箱の左側ですから同行者に押してもらわないとダメです。

 

 

【境内の様子】

安那明神社社頭

安那明神社拝殿

本殿

幣殿斜め後ろから

社殿遠景(社頭からは道に沿ってあるように思えるのですが実際には高いです)

注連縄で囲まれた場所

昭和天皇御大典紀念手水鉢

狛犬

山からの流れ

 

【おまいりをおえて】

由緒へのリンクができないのでネットで調べると、753年に青龍大明神を祀るも11世紀に一部消失。17世紀終わりに社殿再建して安那明神に。今の社殿は大正時代のものとのことです。

 

かなり古い神社だと知って驚きました。それだから神社巡りの一社なのかも。

 

鳥居から木々の向こうの拝殿までいい雰囲気に思えたのでお詣りしました。多くの神社は鳥居をくぐるとひんやりして空気抵抗がなくなるような感じになりますが、ここは全然違いました🙄?

 

もわーっとした感じ? 重いのではないのですけれど、空気がまとわりつくような変わった感じでした。横を山からしみだした水が流れているから湿度は高いのでしょう。でも、鳥居から急に変わるのは不思議です。

#あくまでその日個人がそう感じただけで他の人は全く違う感じを受けるかもしれません。

 

本殿横での感じも同様でした。ただ、こちらは包み込まれるような感覚の中に社殿から向かってくる流れもありました。

 

向かって左側は山なので境内に落ち葉は多かったです。でも参道や社殿周囲には少ないところをみると定期的に掃除はされているように思えました。これから初冬にかけて落ち葉が増えていくので、お詣り時期によっては落ち葉の絨毯になっているかもしれません。

 

樹に囲まれた中に小さな石組? は注連縄のおかげでまたがずにすみますが、ないとうっかり歩いてしまう人もいるのかも。石とかはどんないわれがあるか分かりませんからまたいだり触ったりはしない方がいいです。

 

トイレはありましたが……女子用(大)の戸がなぜかなくなっているので😅 ここだけはいいようには書けないです。

 

今は右側は道になって樹がないですが、昔は木々に囲まれた静謐な空間だったのだろうなと思える神社です。市街地から離れているので車で幾つかの神社と同時にまわるのがいいかもしれないですね。

 

水分が多くて石が苔むしているためか経過年数よりも古く感じるおちついたいい神社でした。

SNSの呪文

あと一社書ける神社があるけれど、書く時間がないのであやしい記事ばかりに。とりあえず今回で終わりにして、次からは忌も明けるしまた神社巡りを増やしていきたいです🙂

 

で、タイトルですが、SNSでの発言は呪文のように効いている話です。

#誹謗中傷による悲しい事件でなくても影響は大きいことを書きます。

 

呪い(呪文)が特定個人や特定の場でネガティブな結果をもたらすものだとしたら、それに対処すればいいしその方法も古来から存在しています。

 

が、SNSは避けようがない呪いの側面を持っています。意図せず表示された言葉を見た瞬間にその文章が自身の心に即結果をもたらしてしまう。思わず笑みがこぼれる動物の話題ならいいのですがそうでないものは短時間で目にすると思います。

 

その度に心が動かされるのはあまりよいことではありません。ポジティブなエネルギーが消費されてしまいます。逆にネガティブなエネルギーは発生します。それを自身の言葉として新たにSNSに投稿すれば新たな呪文の誕生です。前回の記事の怒りの再生産です。地雷ひとつなら踏まずに歩けるかもしれませんが、大量に埋まる地雷原は歩けません、危険過ぎて。

#かつての不幸の手紙をイメージしてもらえるとわかりやすいと思います。

発言ひとつは弱いのです。どんどん我も我もと繋がりあうと強力なものになってしまいます。今は、発言をきっかけに多くの人が動いて何か変えられたなら、それがなんだか良い事のような空気があるように感じます。自己が無力でない、あるいは孤独でないと感じる高揚感かもしれません。

 

怒りを排除した言葉の繋がりは大丈夫でしょう。ネットの良い面だと思います。

 

共感と言う言葉がどこにでも溢れています。エネルギー的によろしくないものに共感するとすぐに自身のエネルギーは変化します。良い状態をできるだけ維持しないと人はおかしくなります。普段良い状態を保てている人はこのご時世少数のはず。そうでない多数の人は意識して避けないといけないでしょう。誰もが知る心霊スポットにわざわざ出かけないことと似ています。

#増減という言い方よりも、質の変化の方がどちらかといえば正しいようです。

 

精神的にストレスを感じる人が住む世界はネット以外にあるのかもしれないですね。海や山のそばで自身を包んでもらうのはすぐにその良さがわかるものです。アスファルトとコンクリートに囲まれていても、自己の内を神域を流れる川のせせらぎや穏やかな陽光にすることは少しの練習で可能でしょう。

 

現代特有の呪文と解呪は各自が向き合わねばならない課題です。

誰でも灯せる明かりは目には見えないけれど

寺社で建物の修理のためにお金を募っていることがあります。それを見るまでは期待で見た後は落胆です。なぜなら、多くは一口〇円からと書かれているからです😞

 

今はその日暮らしの人がとても多い時代です。その人達にも信仰の扉は開かれていますが、目に見えない閉じた扉も同時にあるように感じられます。

 

寺社側にも様々な都合がある(例えば名前を書くとか)ことでしょう。部外者がそれをどうこうは言えないです。だからお参りする側で工夫しましょう。諦めない方向で。

 

一口〇円でうなだれることはありません。自分が無理なく出せる額を賽銭箱に入れれば充分です。寺社によっては一口とは別に自由な額を入れられる箱を置いてあることもあります。そうした寺社ではそこに入れると大丈夫ですね😄

 

あるいは、数人で一口分を出し合う手もありますね。複数人だから名前は辞退すればよいかと🙂

 

金額の多寡は関係ないから、わずかですがと卑下することは不要です。その人にとって大きな金額を真心こめて入れればそれは絶対に神仏に届きます。境内のどこかに彫られた(書かれた)名前はなくても、神仏の心にはしっかり刻まれるそうです。

 

生まれ変わってまたその寺社にお詣りした時にも神仏、ご眷属様も笑顔で迎えて下さると信じます。

小さな灯りはこの世では輝きませんが、あちらでは美しく輝いて神仏の世界を照らすことでしょう。

 

#貧乏自慢記事ではありません😅

黄金の色はひとつに対し世界は無限の煌めき

黄金の美は最初から金に輝くそれだけ。玉虫の羽の美しさには劣る。それは常に作り変えられてきた美だからですね。具体的には幼虫が栄養を蓄えて蛹の内で色を生み出した結果です。そこに綺麗になりたい意志はありません。

固定されていない美はシステムの働きを現す故に美になるのですが、システムに問題が起れば美も一時的でしょうが消えるのです。

 

この世のシステムも別次元のシステム(本来ひとつですが人間からは別れているように思える)も修正真っただ中なのは確かです。どこをどれくらいは分からないですが(私には)。

 

手伝いを望まれて応えられる者は恐ろしく少なく、その少数をもって当たるのではより長期間で緩やかに、あるいは短期で激烈な処置になるのかと。書かないけれど想像してください。

 

望まれる者の資質はそれほど大げさなものではないのです。豊芦原瑞穂国の民なら、豊かで清らかな水に触れると安らぎ、草木の花に心を緩め、鳥や虫の声に人と同じ想いを感じる。一人の弱さと皆が力を合わせる強さ喜びを知り、貪らず和こそ明日へ繋がると”考えることなく理解”している。神仏に見守られる嬉しさと同時に、人も神仏に喜びを与えることができる”魂としてみれば同朋”と知っている。

 

簡単なことです。多くの人には可能性も最低限の資質も芦原中国に生まれてきたことで最初からありました。でも、反対のことしかやらなかった。

この世には無限の色があるけれど、それを見るには”見えていない色に満ちている”と分からねば見えないのです。

 

アリとキリギリスの話をしますが、以前どなたかのブログのコメントで書いた気がします。

 

アリはなぜ己が物質世界を所有できると勘違いしたのか。キリギリスはなぜ己の外にあるものを所有物と勘違いしたのか。

 

アリは己のそばにある食料をキリギリスが食べる分渡せばよかった。キリギリスは相手の心を満たす歌を歌ってお礼に渡された食料を腹に入れればよかった。お互いに足りないものは持っていたがどちらも勘違いした結果不幸になりました。ここでアリは歌が嫌いとかつまらないことを思った人はどうぞそのままでいてください。

 

この世はまだ修正可能だろうと信じています。アリとキリギリス双方が変わればです。片方ではおしまいです。

 

明日世界が終わったとしても……それまでを受け入れられるように今日満足して眠りにつけばまたいつか次回があります、きっと。それには不平不満で己を作り変えないことが大事。エネルギー的嘔〇物を吐くなと前に一回だけ厳しい調子で書きました。あれから眺めていますが、毎日吐いている人はやはり吐くことしかしていません。それが楽ですからね。私にも経験があるのでわかります。

 

呼吸は吐かないと吸えませんが、よいエネルギーは浴び続けることが可能です。よいエネルギーを満たして他者へ送ると自分という者がシステムの内で正常(清浄と同じ音なのは意味のあること)に動作できるでしょう。それが管理者である神のシステムに沿った生き方、すなわち、かんながらの道です。

#これ以外の生き方も全否定されていないことも書いておきます。

 

修行? 術? 極端な言い方をすれば不要です。人は心というツールを持っていて自由にできるのですから。大事なのは技ではないのです。大いに助けてくれるものも勿論ありますが、絶対のものではありませんから。

 

タイトルの無限の煌めきとは、周囲ではなく己の内の無限の煌めきを外に感じている状態を指しています。よく一瞥体験で眩しく感じたというのはこれです。急激な体験なく、常にそうなることは可能です。

 

さて、わざと抽象的に書いたので、読んだ瞬間に忘れて行きますね、これだと。

 

箇条書きにします。

 

・エネルギー的に嘔〇しない。

・貪らない。

・他者の力を利用せず借りる。

・他者と力を合わせる。

・怒りの再生産をしない。

 

箇条書きにすれば簡単っぽいイメージにできるかと思いましたが難易度が高い無理ゲーの匂いがしますね😅 

 

#神社巡り記事書けないと説教ばかりになるので、早く忌があけて神社に行きたいなと思います。

内も外も違うのです

人間の外(器、肉体)は差が大きいです。神仏がデザインする時に本当は均質な器を用意するのは簡単だったはずです。あえて差異がある理由は今更くどくど書きません。違いが必要とだけ書きます。

 

内側(魂、霊)も同じです。生まれた時期も成長度合いも千差万別、一人として同じではありません。人の中身の違いは外の器の差異など比較にならないほど大きなものです。

 

どんな人も人としてこの世(三次元)にあれば同じ権利の元にあります。魂の年齢差(経験値)は考慮されません。それはこの世的にはよいことです。

 

逆に、三次元で同じように見えても高次元から見て同じかといえば、厳然とした違いが一人一人にあります。

 

それをこの世の姿や能力だけを見て判断することは愚かで高慢以外の何物でもないです。皆、他と置き換えられない無二のものですから。

 

神仏の世界全てを見通せる者はこの次元にはいません。皆、一部だけを見ています。己が見ている感じているものと他者がそうしているものとが違っていても当然です。その当たり前を忘れ、己が正しく他者は間違いと断ずる傲慢さは高次元との間の最も強固な壁です。この次元での霊的能力の差はその人の魂の成長度とは関係ありません。より大事なのは一歩一歩成長していくことです。他者を貶めるのは成長にはつながりません。

 

この世は学び(遊び含む)の場です。与えられた教材の中から何を学ぶかは各自が選べます(高次元保証付)。様々な人が伝える目に見えない世界のこと、どう判断するかも学びです。そこに他者への敬意を持ってすればきっとこの人生で大切なものを持って上へ還ることができると思います。

 

#何の話? と思われたはず。一部の人の問題を書いているので、読者の皆さんには無関係です😅

不幸中の幸い? になるのか

このブログではご先祖様うんぬんという記事はたぶんありません。いや、一度希薄な繋がりと書いたかな。一応、神社と高次元うんぬんのブログなので。でも、お盆くらいは書いてもいいでしょう。

 

神社に行くのに忙しいのでお墓は本当に気が向いた時にしか行かないのです。今は神社へ行くことができず、どこも自由なご老人が暑さを避けてウロウロしているので、お店にも最低限。だから遠いお墓へ行こうと唐突に決めて車に乗りました。

 

5年くらい? 行っていないのでグーグルマップで霊園を表示後に記憶頼りの走行開始。近くまで来たのですが、霊園の場所と記憶が合わない? 途中でナビに切り替えて着いた先はどう見ても初めて見る場所。ではこの表示かなと別の場所に行くも大ハズレで😑

 

結局、確実に間違いない場所まで戻って記憶を頼って左側に注意しながら走っていると……案内看板を発見⁈ 曲がった先を見ると記憶にある山。30分ほどロスしてなんとか駐車場へ着いたのでした😂

 

まあ、ここまでは歳とったら久しぶりに行くと迷うねという話です。

 

そこは山の斜面にたくさんのお墓があるのですけど、だいたいの位置は覚えていました。ここで問題が発生です。所々、お墓が新しいのです。さらに上部に新たな区画が誕生済み。墓の間を通る細い道との相対的な位置を覚えていただけなので絞り込めません😱 せ、せっかく来たのに。

 

それらしい辺りを探していると父方の名字が彫られた墓石を発見です。が、なんともいえない違和感があります。そもそも父方の親族と長年疎遠になっているから伯母らしき墓に刻まれた下の名前の記憶が曖昧。俗名を見ても自信がない。

自信がないけど、このまま帰れないと線香を取り出す。ライターで火がつかないから諦めて、般若心経をあげて墓を後にしました。

 

帰宅後に母親に訊くと「お前、それはどこそこの人でその墓は違うだろ」と😨

 

ショックを受けている最中に続いた言葉は、「お前の父親のいとこにあたる人と昔聞いた」と。

 

私から見るとその人は父の従姉で、つまり私から見ると従伯母でした。50になるまで全く知らなかったのです。5親等の血族になり、つまり親族です。

 

私が変化した墓地の様子に迷わず父方祖母の墓にすんなりたどり着いていたら、きっと死ぬまで墓の存在を知らなかったでしょう。知らなかった親族にお経をあげるとは家を出る時には思ってもみなかったです。

 

霊的な繋がりを少し考え直す契機になった出来事でした。

 

#盆休みでのんびりのはずがいつもより更新の不思議

熊野神社(岡山県倉敷市真備町尾崎682)

熊野神社|岡山県神社検索|岡山県神社庁

国道486号を走行中に道の北側に鳥居と石段が見えたのでお詣りしました。交通量の多い道で周囲の景色を眺める感じではないので何度も前を走ったのに気がつきませんでした。

 

目次

 

【御祭神】

伊邪那岐神 伊邪那美神

熊野神社への道】

国道486号を矢掛方面からだと、右側を流れる小田川から離れた後に本当に直線が続きます。1.5キロくらい走った所にこんな案内標識があります。

神社はここの左側にありますが前の道は細くて駐車スペースがありません。直線がわずかに登りになった所で左折します。民家の間を抜けて突き当りを右折して、少し向こうの緑の木々が茂っている所へ向かいます。道は細いですが神社まではすぐですし、対向車が来るとは考えにくいのであまり緊張しないでよいかと思います。写真は上から自動車参道を撮ったものです。

東からだと真備市街を抜けて井原鉄道高架から分かれてすぐに道の右側にガソリンスタンドがあります。この前を通り過ぎて緩い坂を下った所で右折してください。後続車はおそらく右折すると思わないはずです。早めに合図をして減速してください。

 

自動車参道を上がったら車を数台とめられそうなスペースがありました。

【車椅子使用の方のための情報】

自動車参道で社殿そばまで行くことができます。妨げになるような段差もありません。ただし、拝殿は一段高くなっていて拝殿前は狭いです。車椅子でも行けますが正面ではなく左から賽銭箱に賽銭を入れてお参りするのが安全だと思います。押してもらっているなら真正面でお参りもできるでしょう。

 

本殿幣殿横は緩い斜面です。押してもらえれば本殿下までいけるかもしれません。

 

道を登りきって境内に入った所から緩い下りで拝殿前(一段下)の広い場に続いています。登りが一人ではキツイように思えました。

 

境内社の八幡社は長い石段の先ですからこちらは下からお参りするしかありません。

 

この熊野神社は車で来れば、お参りは難しい神社ではないと思います。

#私がほとんど車椅子を使った経験がないため(押したことはそれなりにあります)に上記の内容は不確実だと思ってください。車椅子の方が誰でも可能かどうかはわかりません。

【その他の交通手段】

井原線吉備真備駅と呉妹駅の間にあってどちらからも1.5キロまではないので、電車と歩きでお詣りできなくもないでしょう。

 

 

 

【境内の様子】

熊野神社社頭

石段上から

狛犬

拝殿

本殿

社殿全景

東参道

八幡神社

途中の境内社

古墳の説明板

 

 

【おまいりをおえて】

山の上になかなか立派な入母屋本殿を持つ神社がありました。正面参道は一の鳥居と二の鳥居、石段の終わりには注連柱も。東側にも鳥居と石段参道があります。

 

長い石段(百段はあったかと)を上がった先の空気は澄んでいた気がします。

#お詣りから数か月が過ぎているため、気の感じは忘れてしまいました。

 

葉っぱがぱらぱら落ちていますが山の神社では掃除直後でなければ当たり前です。きちんと維持されている神社なので雰囲気は良かったです。

 

夕方遅い時間のためにゆっくりできず、時間が経って細かいことは忘れてしまいました。読まれた方がご自身で神社の空気を確かめてみてください。

 

交通量の多い国道のすぐそばにあって静謐かつ明るさもあるいい神社でした。

 

#家庭の事情で盆休みに入ります。皆さんもよい休日を。

ほぼ週一更新になってるから盆休みの意味が無かったことに翌日気がつく😅

水浴び?

今週のお題はたいていかすりもしないのですがこのお題「最近洗ったもの」は大丈夫😄

 

なぜなら、洗ったのはお狐さま(狛狐)だから。

朝から晩まで日が当たる場所ならいいのですが、半日は日陰になるような所(その上土地の水分が多め)だとじわじわと緑色が増えてくるのです。梅雨の間は洗っても無駄な気がするので毎年梅雨明けした一番暑い頃にお狐様に水浴びをしてもらいます🙂

 

御影石花崗岩)だから硬いブラシでゴシゴシ洗うと表面が荒れてしまうので、柔らかなスポンジやタオルにたっぷり水を含ませて優しく洗っていきます。その前に、中のお狐様本人には一時退避をお願いします。いきなり頭に水をぶっかけたらきっと叱られますからね😅

 

汚れていたお狐様像が濃い灰色(濡れているので)になってきたらおしまいです。乾いたタオルで拭きあげたら一服します。真夏だと30分もしないで乾きます😆

 

陽の光を浴びて白く輝く狛狐はただの像のはずが神々しく見えます(思えます)。

 

一目で古さがわかるような像だと洗うべきか悩むと思います。綺麗だけどちょっと汚れが目立つ程度ならより綺麗にした方がいいと考えてやっています。苔だけでなく鳥の糞だらけではアレですから。

 

勧請は人からのお願いで高次元の方々に来ていただくのです。お迎えの時から廃社でお帰りいただくまで(の期間)が勧請だと思います。洗うことはその中の行いの一つです。

 

#一年半ほど前に同じような記事を書いています。古い物は時々新たに書いています。