ほわほわ神社生活

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神社が暮らしの中にあるおっさんのちょっとだけ変わった日常です。主に岡山県広島県の神社巡りをしています。神社巡りの記録や神社のことで思うことを書いています。

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社会のお荷物?

このブログは時事ネタを扱いません。今日のは例外ですが、理由は霊的な問題がそこにあるからです。

#簡単に書こうとすると難しいです。といって文を増やして説明するといろいろひっかかるのです。

 

目次

 

【人は社会のために役立たないと死ぬべきなのか】

選民思想、優生思想の亡霊はまだ成仏できずにこの世をうろついているようです。定期的に現れますね。障碍者や老人(今回はあえて高齢者ではなくこう書きます)など、社会に貢献できそうにない(できない)ものはこの世から退場するべき(させるべき)で、それが健全な社会の在り方らしいです。

 

言うまでもなくこれは否定されています。人は機械ではないので生産性が評価基準ではありません。

 

【ある軽度知的障碍者のこと】

昔、一緒に働いた年上の男性は軽度の知的障害がありました。作業でちょっとうっかりミスやそうじゃないよという行動がたまに見られる程度で、本人から自分はそうだと告げられるまではそう思っていませんでした。

 

表現が独特ないわゆるいじられキャラでした。皆仲良く一緒に働いていました。裏表のない人でしたから、何かした時もしょうがねえなあで皆笑ってそれで終わり。

 

まだ若かったのにずっと前に亡くなってしまいました😢

 

私がコンタクトできるようになってから、どうしてるんだろう? と思って久しぶりに話をしました。

 

応答してくれたのは生前の軽度知的障碍者ではありませんでした。私は受け取ったメッセージを言語化する処理に問題がありますが、感情の部分は処理できます。

 

応答していた相手は高い知性を感じさせる霊でした。驚いたことを伝えるとさっと変化して一緒に働いていた頃の朗らかなものを送ってきました。生前彼が使っていた脳が他の人のそれより処理能力が劣っていた部分があり、それが彼の知性を発現させることを妨げていたのでしょう。肉体の枷をこの体験で知りました。

#わかりやすく知性と書いていますが本当は霊性と書くべきものです。

#あくまでも私が一緒に働いた人のケースです。他の方のことはわかりません。

 

スピリチュアルな話では、障碍者はその霊的な部分が障碍者なのではないと言われますね? もちろん知識としては知っていましたが、その時までは紙の上にある知識を分かったつもりでいたのです。

 

この世の様々な人への理解は(知識だけでは)もろいものだと教えられました。

 

【あの世とこの世の逆転現象】

私が身体のことを器とこのブログで書いているのは、寿命まで使うこの世の道具だからです。百年もたずに終わる物質も大事ですが、次元をかえてもある不可視の部分がその人間です。

 

この世で障害を抱えていても、あの世では他者よりも多くの経験から様々なことをできる者かもしれません。

 

人はその霊的背景を知らねばどういった人なのかわからない存在です。選民思想や優生思想はこの世だけ見て判断している時点で全くお話になりません。

 

霊的に経験を積み重ねた古い者は、大学生が小学生の家庭教師をするように、まだ幼い者には学ぶ手助けをすることを自然だと思っています。自分は大学で日々未解決の問題を考えているのにお前は九九を覚えようとしているのかなどとイキリまくったりはしません。

 

その逆はいくらでもあります。それこそ一時間に何回その疑いのあるシーンを目にすることか😞

 

勘違いしてほしくないのは、馬鹿な行為をしているから幼いということでもないのです。これもまた間違えたものの見方で逆の差別意識。上で書いたように、簡単に判断できることではないのです。その人間を判断すべきではなく、あくまでも言動を対象にすべきです。

 

何も役に立たないから社会のお荷物であるなら、この世でだけのルールをあの世にも適用しようとしている者の方が敢えて言うならお荷物でしょう。あちらの存在にかける大変な霊的負担という意味でです。

 

あの世もこの世も全てはわからない。その人自身も他者からは(少なくともこの世では)わからない。わからないからこそ存在しているのです。

 

その理解のための場であるこの世から追放しようとする思想、行為は許容範囲を越えます。

【おわりに】

一部の人が思うような"社会のお荷物"は許されています。そして、勝手に判断する一部の人の思いあがりも自由です、この世でだけは。