ほわほわ神社生活

ほわほわ神社生活

神社が暮らしの中にあるおっさんのちょっとだけ変わった日常です。主に岡山県広島県の神社巡りをしています。神社巡りの記録や神社のことで思うことを書いています。

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バリアフリーを書いている理由

いつもはあえてぼかしていることを今回はやめて書くことにしました。お金の問題は仕方ないので私がどうこう言えません。また、個々の神社でできるだけそうしようと努力されているのは一部ですが知っています。そうした実際の動きよりもどちらかといえば心のあり方の話だと思ってください。

 

追記

下手に物を動かすのを恐れて手をつけないこともあることを書き忘れていました。これはきちんとするとしか言えないです。

 

コメントの形でこれならどうかと思うことを追記してあります。

 

目次

 

バリアフリー化は罪なのか】

私はいつも神社にお詣りしたら足が不自由でもお詣り可能かどうか状態を見ています。それは毎朝毎晩の産土様へのお詣りを欠かさなかった祖母が晩年足腰の衰えからお詣りできなくなってからの姿を見ているからです。

 

寺社へのお詣りはある程度の年齢に達した人(の内でいくらかの割合で)には生きがいのようになっています。バリアフリーはこうした人が心の喜びを失わないですむ大きな力になります。

 

もちろん、若い世代でも一定数は精神的な物事に深い関心がありますから、障碍を持つその人達にも喜びとなるでしょう。

 

バリアフリーと書くから何か神社と相いれない欧米的思想のように思えるかもしれませんね。そうしたこともあって私は記事中の項目をバリアフリー情報とは書かずに車椅子使用の方のための情報としています。

 

昔からある神社の意味を変えてしまうのなら罪かもしれません。

 

バリアフリーの許容範囲】

極端な例をあげてバリアフリーは神域破壊と主張することは可能です。奥宮がある緑豊かな土地を切り開いて舗装路を社殿まで通すのは確かに問題があります。でも、山中(山上)の奥宮まで望んでいる人がどれくらいいるのでしょうか? 障害があればどうしようもない無理な要求は多くの人はしないし、あまりに度を越した場合には皆から非難される例は枚挙にいとまがないです。

私が望んでいるのはあくまでも人の生活の中にあって、少しの配慮があれば皆が同じ喜びを得られるものについてです。具体的にいえば、街中にあるが数段の石段のために車椅子の人を遠ざけているような神社がそれにあたります。

 

幅3メートルくらいの石段の半分を緩いスロープにするとその神社は神域として機能しなくなるのでしょうか? 今の神社は人工物を人間が築いたもの。そんなことくらいでどうこうなるものではありません。

 

全ての神社がそうなる必要はないでしょう。日常生活の中で身近な神社のどこかにお詣りできるようになればありがたいと満足する人もいるでしょうから。

 

【ご眷属様の想いと神社】

神社を守るご眷属様が望まれているのは、良き参詣者です。障碍者だから文句を言うな身の程を知れと思うような人間は望んではいません。これには理由がちゃんとあります。

 

神々やご眷属様にとって百年も使わぬ器の状態など判断材料になりません。大事なことはその中身、霊性です。神様のおられる所へ行きたいという願いを、障碍者だから諦めろ無礼者めと思うご眷属様がいるなら会いたいです。

#ここでいう霊性とは単純に経験豊富な古い魂ということをさしているのではありません。魂としては若くてもこの人生で今後に影響することを学んでいる人も大勢います。

 

少なくとも私が日頃関係あるご眷属様方は一人残らず、障碍者だろうが健常者だろうが神社が好きなものは来いでした。脅したくはないので普段オブラートに包んでいるのをあえて書くと、神社を神域で無くすのは数段の石段さえなければなあとかこの端っこの土地が固められて車椅子で通れたらなあと悲しく思っている障碍者ではなく、そうした人に対して”障碍者は諦めるのが当然”と思っている思い上がった人間の方です。

 

心の発するエネルギーを考えれば一秒も考えることなくわかることです。

 

石段を上がれなければおぶってやればいいとかいう人もいるかもしれません。実際に昔はそうしている人はいたし、真剣さを称える空気もあったように思います(そう昔の話ではありません)。ですが、今そうしたことを言う人がもしいたら、心の中は丸見えです。障碍者は常に健常者に支えられている存在と思っていなければ出てこない言葉です。

 

障碍者でも電動車椅子障碍者用自動車で一人で外出する人は大勢います。前述したような人がもしいるならば、それは一人で精一杯生きている人が見えていないのです。助けがいる時に言えば助けてやるではなく、最初から助けがいらないようにするのが問題の本質です。

 

おぶって急な石段を上がれば事故の危険が高まります。人に危険なことをあえてしろと言う人がいたら、どう判断されるかは言うまでもないでしょう。

 

また、歩けるには歩けるが高齢のためにもう足が上がらず低い段差でも難儀する人もいます。こうした人は手押し車を押して歩いているので見かけることは多いと思います。

 

こうした人も石段の一部がスロープになればどれだけ助かるでしょうか。最初に書いたように、お年寄りの中には寺社へのおまいりが心身の健康維持の重要な要素の人もいます。

 

身体が多少不自由でも頑張ってお詣りしている人には頭が下がりますが、その人も他の人にそれを要求はできません。もしそうしたら、その傲慢さでせっかく苦労してお詣りしたことも打ち消されてしまうでしょう。

 

心が一番大事なことです。

#お詣りで、心があれば作法もできるはほぼ正しいですが、作法が感覚としてよく理解できない外国人一切無視な神はおられないように、作法は本人の敬神とイコールで論じていいものではないと思います。

 

バリアフリー化に反対する人はわずかな石段(段差)を守ったり、石段と別に緩い道を作らないことを神々への敬意とでも思っているのでしょうか。禁足地と人がお詣りする神社は違います。神社はあくまでも土地と神と人が交流するために作られたものです。

 

【おわりに】

奥宮など今では特殊な場は触れずに、町の神社で人と神が共にその地で過ごすための場はそう望む者は皆そうできるように整えるのがよいと私は思います。また、神々やご眷属様も障碍者を排除しようとはされていません。障碍があってもよく来たなと歓迎はされても、特別扱いとはまた違うので誤解無きようにお願いします。

 

ほんの少しの配慮で喜びを得られる者を排除しようとするのは和とは遠いです。令和ではなく零和です。