ほわほわ神社生活

ほわほわ神社生活

神社が暮らしの中にあるおっさんのちょっとだけ変わった日常です。主に岡山県広島県の神社巡りをしています。神社巡りの記録や神社のことで思うことを書いています。

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苦悩の終わるまで

まだ書いていない神社がたくさんあるのですが、間にひとつ挟もうと思います。私が病気から快復して穏やかな日をおくれるようになるまでのことを今までより詳しく書いてみます。まったくほわほわしないので来年4月1日にブログ名を変更します。

 

目次

 

【落とし穴に落ちて】

人生最大の選択ミスはお金がないゆえの遠慮が招いたことでした。自分の能力とは別の力で線路を切り替えられるのは、ネットで情報を得られない時代の18歳の若僧には抗えませんでした。

 

当時は本当に人一倍努力を重ねてきただけにショックは大きく、部屋から出ずにずっと天井を見つめて夜まで泣き、よろよろ起き出して今と比較にならないほど不味いコンビニ弁当を少し食べてまた泣いて明け方にいつの間にか寝て夕方に目覚める。

それからの日々は悲惨の一言。それでも家族はもっと真面目にやれと責めたてる。手のひらを返してこの状況に追い込んだのはお前たちだろうと憎悪は増すばかり。どこにもきちんと生きる意欲など無かったのです。趣味で忘れようとしました。が、しょせんごまかし。心の底からの喜びは何も感じられませんでした。

 

車やバイクで峠を走る時、仲間といる時は一応は楽しかったのです。でも一人の時は、次のコーナーでノーブレーキなら終わりにできるし、若者の無謀な事故死として片づけられる方が自殺より世間体はいいだろうと考えていました。何度もそうしようと思っても恐怖で思わずブレーキングしてしまう。その度に、生きていることと死んでいることを考えていました。今の若い子が薬を大量に飲んだり、手首を切るのとたぶん同じです。

#自身の人生の向こう側について知ってみると、これもこうなるようになっていたということで納得しています。

 

【ありがちな生活】

自身への絶望とか他者への妬みとかその他諸々が脳内を休むことなく駆け巡る日々。家から出られない時もあり、少しの時間元気な演技をして出ることもありました。

 

自宅に引きこもっていると、田舎の人間には最高のご馳走を提供することになります。他人の不幸は密の味という人間はどこにでも山ほどいます。出会う度、仕事はどうしたとか今どうしてるとか必ずそうした尋問が始まるので、人目を避けて昼間一歩も外に出られない。夜になってようやく庭に出ることができる。

そうなった頃にはもう完全におかしくなっているから、玄関を一歩出た途端、外界への恐怖で吐いてしまうのでした。吐いた後はやっと外出できましたが人の多い場所には行けません。人の少ない夜の書店が唯一行ける場所でしたが、これも病気で身体がガタガタなために短時間しか立っていることができないのです。たくさんの本が並んでいるのを見るだけで楽しかった昔が嘘のように、かろうじてできる唯一の作業になってしまっていました。

 

今だとこれは心療内科あたりに連れて行かないとと誰でも思うはずです。ですが昔はそうではなかったのです。私は自身が病気だと思っておらず、周囲も受診を考えもしなかったのです。今の若い人達には想像しがたいと思います。

 

ほんの少し意欲が出て生活のために頑張って働いてみるも、病気で記憶力判断力が著しく低下していたためにミスが多く、自然と職場に居づらくなって辞めることで以前より悪化する。何度繰り返したか覚えがありません。

 

今の若い世代はデジタルネイティブだからオンラインで多くの同じように苦しむ仲間を見つけられるでしょうし、病気についての詳しい説明も体験記(闘病記)も読めます。孤独ですと書いている人は多くてもSNSで誰一人反応してくれないことはないでしょう。ネットのない時代の患者の孤独感は想像できるでしょうか。生まれた時からあったものが無い状態(社会)は想像も上手くできないのではと思います。

 

【自分との対決と敗北】

私は自身が思い描いていた未来とは違うルートへ坂を転がり落ちるように進んで行きました。外部から受けるよくないエネルギーとは別に内部にどろどろした得体のしれないエネルギーがあることに気がついていましたが、それは見ないようにしていました。

 

心の奥底の暗い所から何かがやってきます。その時は全力でそれを闇の底へ蹴落とすのです。長かった間隔が次第に短くなり、夜ごとそれの手が真っ黒な穴のふちにかかるのです。長い時のはてに、ついに姿を見せました。どれだけ見たくなくても自分の内側だから距離がないし、本当は最初から正体はわかっていたのです。目の前にいたのは私でした。

その私は私だと思いたいものとはあまりにもかけ離れていました。だから必死になって見ないようにしていたのですが、向こうの力がついに上回ってしまったのです。たぶん疲れきっていたのでしょう。

 

長時間だったのか短時間だったのか今となってはわかりませんが、己の正体全てを知らねばならない時間でした。どれほどおぞましいものでも認めるか認めないかではないのです。私なのですから。

 

絶対に認めたくなかった(というより知りたくなかった)のは、土下座して己の存在を認めてほしいと誰か(世界)にお願いしている自分。それだけの願いも叶えてもらえない自分。たまらないほどみじめな自分。

 

そうした哀れな自分とは正反対の、様々に他者を圧するどろどろの狂暴な自分。

 

己の嫌な醜い部分全てを残さず見た時に精神的に一度死んだのだと思います。身体を止める自殺ではなく、心の自殺でした。

 

決して楽なものではなかったです。人(と現在の状態)によっては致命的なダメージにもなりかねないものでしょう。ただ、私はそれで変化できたということです。常にいろいろなこと、ものを変えたい変わりたいとの思いは無くなることはなかったです。それが無かったらどうなったのか怖ろしいです。

 

そのままなら、もしかしたら身体もとめたかもしれません。そうならなかったのはその後にポジティブなものがゆっくり現れたからでした。社会の常識とか対人用に成形した意識あるいは思考とは別の所からのもの。もう足掻くことができずに静かにそれを眺めていました。

 

様々な存在に見捨てられ軽く扱われることが日常になって、ありとあらゆる自信が消え去った暗い心の中に、軽く扱ってはいけない自分があったことを非常にゆっくりですが嬉しく思うようになっていきました。

 

かつての自信というのは今から思えば単に他者との比較で優位点を見つけたことに由来するものでした。だから簡単に失われたのです。新たな自信(近年広く知られた言いかたに直すと自己肯定感)は他者との比較でない所に発したものなので、他者との関係で揺らぐことのない支える太い柱にこののちなっていったのでした。

#ここまで書いたことは昔ながらのやり方です。今はもう少し楽な道もあると思います。

 

3Kと言われた労働でも生きるために思うように動かない身体に鞭打って頑張った結果、耐えられるように筋肉が厚く骨格を覆い、かなり遅れてやってきた身体能力のピークはさらに生きる自信を産んでくれました。

 

が、その日々もそう長くは続かなかったのです。ブラック職場の特徴てんこ盛りでしたから、いつかは限界がやってくる。ショックなことも重なりしばらく休みたいと思うようになって家でぼんやり過ごしました。その後、短期間で次のホワイト職場で働けるようになって普通? な暮らしにここでやっと戻りました。経済的には困窮していますから物質的にはいろいろ厳しいのですが、昔を思えばたいした不満もなかったのです。

 

この後、”人生最大の選択ミスで止まった時計を動かせたらある程度満足して死ねる”と思っていたことが実際に起こったのは以前書きましたから省きます。

 

#ここで出て来たもう一人の私とは、普段意識している自我とは異なる働きをわかりやすくするために、そう表現しています。

 

【過去と現在と未来の区別のない人生へ】

妹との二人三脚な日々は発見の連続です。バラバラなピースが埋まってパズルが少しづつその姿を見せてくるのは面白いです。こうなると現在から類推して過去の意味を掴むことは容易になります。人間が悩む出来事より背後の部分の方がはるかに巨大。この世の出来事は全て氷山の一角にすぎません。真の理解は苦悩を消し去ってしまいます。

 

何のために生きるのかというこの世の人間の永遠のテーマ? も本人がわかっていれば永遠ではない。自身の全てがひとつに集約されているから特に不安もないのです。

 

自身の老後(と資金)とかこれからの配偶者の有無とか人が気にするそれは未来のように思われるかもしれませんが、区切りのない世界になれば、もう終わったことです。現れる現れないは大したことではなくなります。

 

ここまで読んで一部(多数か?)の人はきっとこう思うでしょう。

「底辺の基〇外が何かすがれるものを見つける時、こうした目に見えないものになりがちな典型例」

素晴らしい👏 それで結構です。私の経験したことを書いているだけで、争うつもりはないので思いはご自由にどうぞ🙂 病気の苦しみが終わったのは霊的なものとは無関係でした。霊的なものとの関わりはそれ以降のことです。

 

最後にひとつ、トンネルを出た者からトンネル内で迷っている人へ。霊的な部分まで辿り着けとは言いません。なるべき時にそうなるので無理強いはできないからです。 

 

同類相哀れむはいつか卒業しないといけません。道に迷っている者が別の迷っている者に出会ったからといって正しい道がわかるわけではないのです。むしろもっと間違ってしまうかも。

 

それと何かに責任転嫁したい気持ちはわかりますがそれは真っ暗なトンネルを抜けるための灯りになるとは思えません。なってしまった原因は自分にはなくても、そこから歩くのは誰のせいでもない己自身の責です。それは自分の人生で他の人の人生ではないですから。

 

言われなくてもわかっていると言われるかもしれませんが、本当にわかっていたら反発する心は湧きあがらないはずです。私はかつて両親によくない感情を持っていましたけど、裏側がわかってからは親はそれぞれただ己の人生に現れるものに自分なりに対処していただけだと思っています。意味はその時の自分が適当につけているだけです。変わる時にはがらりと変わることもあるのです。

 

また、何かしてもそれは病気がそうさせているんだよというのは他者の優しさから出た一時の慰めではないかと。何一つとどまるようには宇宙はできていません。未来永劫とどまるものはなく、未来永劫とは今のことです。

 

最後にお願いです。

 

SNS川に”ね”を流すのはやめてください。「ネガツイは自由にすればいいんだよ」はこの世を自由に汚す権利の主張に過ぎません。これはもうそろそろ理解してください。己が苦しければこれくらい言っても許されていいはずというそれが弱さです。病気になったことや今病気なことが弱いと言われる理由ではありません。苦しいがそれを世界へぶちまけることを少しでも控えてくれた方、本当にありがとうございます。

 

いつもので終わりにしましょう。

 

魂は年功序列な面があります。でも後の世代でも本人の努力次第なのは神も人も同じ。生み出されたある魂のこの世の一面が今のあなただから、自身が思っているような無価値なことは決してないです。いらない魂はひとつも作られなかったのですから。