ほわほわ神社生活

ほわほわ神社生活

神社が暮らしの中にあるおっさんのちょっとだけ変わった日常です。主に岡山県広島県の神社巡りをしています。神社巡りの記録や神社のことで思うことを書いています。

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皆で一緒にはそんなに悪い事ですか?

この記事はあくまでも心の問題についてです。

 

この世は日常(あの世)と違う非日常の不便を楽しもうな場所だから、何でも思い通りにはなりませんよ? それはどんな魂でも同じ。己の好きな事ばかりできるわけではないですけど、それ故に楽しいのですが……。

 

皆で一緒にすることが己に不都合故に悪とみなしているなら、間違いとは言えないが正しくもないです。己だけがこの世に存在するのではない理由を理解すれば、他者の主張(というより存在そのもの)も尊重しながら(無条件でいいなりではないです)日々生きれます。他者と自己は同等とわかれば自身で自身を尊重してコントロールできるので、キツイことが起っても今日と明日を生きるのはそこまで難しい事ではないです。

 

己に不快だと視界に入れねば楽でしょう、今は。その時その時にしか味わえないものがこの世にはたくさんあります。それは次はいつ味わえるかわかりませんし、次をするかどうかは私が決めるというのは、ほぼ間違いです。

 

もっとも、心身が破壊されるのをわざと味わうこともありませんから、そうした場合には楽な所に身を置くのでいいと思います。いや、実は最初からそれを味わうことになっているのだというのなら、嫌だと思って回避しても回避しても最後は必ずそうなりますから、この世で今感じる意識に従って楽な方へでかまわないでしょう。

 

と、ここで終われる話でもないです、いろいろと。こうした場は二度とないでしょうから、こちらで出会った様々な存在の中に身を置くのは楽しめませんか? 

 

私自身は本来、誰かとご飯を食べるようなことはありません。いろいろな立場の者で一緒に酒を飲むこともありません。限られた者としか顔も合わせません(あちらは思念でやりとりするので一堂に会すること自体がほぼないです)。

 

この世ではそうしたことがみな味わえます。それぞれ思っただけではそうなりませんからそれなりに体を動かす手間はかかります。でも、それ自体がここにしかないので貴重な体験です。私個人は、そもそも本来は女なので、こちらで短期間やれるおっさん自体楽しいことです。

 

私にも私の人生が当然あって、それは他の人が代われるものではないから、終わっていい時まではせねばなりません。時間制の遊びだから終了時間になったら場所を次の人へ譲って終わるだけ。その時には、もう時間か! という感じだと思います。

 

自由というのは、嫌な物事を避けることとイコールではないです。それはこの世限定かな。どんな物事も己の意思でそれを自在に受けとめられるのが自由です。

 

本来は他者あるいは世界は”しんどい発生装置”ではないのです。もっと別の見方を探らないといつまでも高い堤の前に溜まっている魚の群れの一匹です。横の魚道に気づいて上に泳いでいけたらそこは己を流すことのない穏やかな世界です。

 

そうなると、皆ですることがしんどかろうが己一人が楽しめることだろうが等しく過去へ消えていきます。

大勢の中で自分と異なる価値観の人がいて己には不快でも体験としては快、独りの楽しみも体験としては快として、来たものは自己で堰き止める事なく流していけることが自由。どちらかしかできないのはまだまだ足りないものがあるということです。他者との関りである自分の人生に起こることから引いていくのではなく、足していく”和”を築くことが大事なのです。

 

人と違うのは良い事でも悪い事でもない。ただそうだというだけ。そうしたことに拘りがある限り、流れずまとわりつく渦の中で今回の人生ゲームは時間切れになることでしょう。

 

今の自分でいいとよく言われますね。あれはただの前提です。スタート地点からどうするかは個人に選択権があります。そこから動かなくても動いてもご自由にです。

 

追記

やってみたいことを(他者を突き飛ばしたり踏みつけたりせずに)やってみるのがいい。

自由は好き勝手とは違う。

他者は邪魔ものではない。同じ時を生きている仲間。

自分の現状をきちんと把握しよう(把握するだけで、得意になったり卑下しない)。

執着になります↑

 

こんな感じでしょうか。春からのことで全て空しいですが。