ほわほわ神社生活

ほわほわ神社生活

神社が暮らしの中にあるおっさんのちょっとだけ変わった日常です。主に岡山県広島県の神社巡りをしています。神社巡りの記録や神社のことで思うことを書いています。

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雌雄異体の地球人類

この世で使う器である肉体は雌雄異体でデザインされています。両性具有の人を考え出すと問題が複雑化するのと私もまだよくわからないので男と女と二つに分かれている前提で進めます。

 

この私は男の身体で人格は男ですが魂で見ると女です。だからといって、身体が違う違和感は日々の暮らしで全くありません。ここにいる私が私にとっての私であって、本体の性別と異なるのも二分の一の確率でそうなるだけのことですので。もっとも、生まれる時に必要な身体は用意されるのでサイコロを振るような確率とは違いますが。

 

違うために違うものは同じにしてはならないのです。人間はみな違うのは元々の魂から異なっているので当たり前のこと。多様性というのは無知ゆえの幼稚な我儘のことではなく、最初から同じではない=その数だけ違いがあるということです。多様性や人それぞれという言葉は己の我儘を他者に押し付けることを許す便利な免罪符ではありません。

 

男に生まれたら男の役割(それに伴って起こる様々な体験)を味わうだけ。女だと主張しても出産はできないように、自由意志が許されていてもシステムに反する行為が褒めたたえられることは哀しいですが決してありません。

 

自分が膨れて半分に分かれて次世代を作る形にデザインされていない理由は、自他を学ぶためです。その最小単位として男と女が用意されたのは生み出す(これもムスビ)ことでまた学ぶため。有名アニメの劇場版のように男だけの集団と女だけの集団ではまずいことになるそうです。

 

一部の人はそうでなくてもいいが本来の形を維持することは重要。それが脅かされようとしていることにもろ手をあげて賛成は問題ありです。

 

高次元存在(記紀神話の神々)にも性別はあります。正確には性別よりも魂の特性と言った方がいいのかもしれませんが、この世とかけはなれているから自身の内にその感覚を現わせる人はこの世にはいないでしょう。上で書いたように異なる性別特性の協力によって新たに生み出すのは高次も低次も関係ないということです。

 

魂ごとのある種の束縛を離れることができるこの世の肉体は初めに書いたようにくじ引きか何かで選ばれているのではなく、必要に応じて個人個人にデザインされているのです。違和感があろうがなかろうがこの人生ではそれが生きていくということです。なんでも私の思うようになるはずというならこの世は1ミリも要りません。

 

この世(地球)には山河があります。岩石の固まりでも水の固まりでもない複雑な環境が用意されました。不要なら人間が造る丸いつるんとした玉のようなものを神々は用意したでしょう。人智を越えたものはいくらでも周りに存在しています。男女の別も然り。

 

わざわざ用意された違いをならすのは山を削って海を埋めるようなもの。自分の首がじわじわ締っていく。

 

こう書くと平等をよしとしない差別主義者のように思われるかもしれませんね。私は泣き笑いの場にいる権利は皆平等だと思っています。こいつの命は軽くてあいつの命は重いなどと思いません。システムに触れる言動に反対しているだけです。

 

女湯に入るとか女子スポーツで無双するとか、そんなこととは次元が違う話です。

#とは言え、↑のはいかんでしょ。

 

なんでも同じにするのが素晴らしいことなんだとの誤った思い込みが、映画によくある断崖絶壁に向かう方へ線路の分岐器を操作することのないようにと願っています。最初から違うそれぞれの存在の現在位置を無視してごちゃまぜにするのは全ての存在に対する差別です。調和の正反対に位置する愚行です。

 

男女の別をぐちゃぐちゃにするとろくなことがないと一行でまとめます。

 

 

上とこちらとの関係について補足。

 

#高次元側は強制は極力避けています。しかし、どうにもならない時にはそうなる前にある種の介入を行います。例えば、様々な文化的活動(文学、演劇、音楽、絵画等)によるヒントを与える(啓示)ことを一例として挙げておきます。

 

浸透(理解)に時間がかかることを考えて時代がそうなるよりも前にそうした物は世に出ます。創作した者は自分が何をしているのか知らずにそうしていました。それにそうした意味があることは多くの人は考えもしないし、一部そうだとわかる者は異常者とみなされてきました。これからも大きな変化はないでしょう。

 

逆に言うと、今起こっていることは今対処するには遅すぎるのです。一緒に人の行く末を見つめましょう。