ほわほわ神社生活

ほわほわ神社生活

神社が暮らしの中にあるおっさんのちょっとだけ変わった日常です。主に岡山県広島県の神社巡りをしています。神社巡りの記録や神社のことで思うことを書いています。

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混沌の中の光

我々は三次元の中にいるから世界全てを”個別のモノ”としてとらえています。

 

モノをその本質のエネルギーでとらえる視覚を持っていたらそれは境目のない巨大なひとつのうねりのように見えることでしょう。高次元存在はそうした視覚もあるみたいです。そちらが本来のもので、三次元的な視覚の方が後付け? この辺りは私にはわかりません。

 

三次元存在には別のものと感じられても、高次元存在にははっきりした境目のない混ざったもののようにも見えると上で書きました。三次元的に似たようなものを探すと、星が次々に生まれている星雲(例えば有名な創造の柱)をイメージしても可だそうです。動き方と濃淡が複雑に絡み合っている。

#本当は違うのだそうですけど、これは三次元存在の限界があるので三次元的な表現しかできなくても仕方ないらしいです。

 

常に流動するものの光方は一様ではなく、グラデーション。その動きの中である一部だけが激しく動いて変化し、やがてより強く輝きだす。それが人の成長。激しく動かない所にそれまでと違うことは起こらないのだということです。激しい動きには己からの動きもあれば周囲から動かされることもあります。どちらも動きなのであえて区別せずに動きとすることは可能です。でも、自他の理解がおかしい(知らない)とそうはできないのです。

 

何を言いたいのか? この人の世で他者とかかわることがそうだと言いたいのです。今は自分軸と言う言葉が本当にはやりですね。ほとんどの場合、私が違和感を覚えるのは、成長の過程にあるのにそのプロセスから外れて停滞している平穏さを幸福とか、自分を大事にしていると妙な解釈をしているのが理由です。

他のエネルギーと反応する時、エネルギーはそれまでと違う変化を起こすのです。輝くだけでなくそれが周囲にも(その時点では必ずしも好とは限らないが)影響を与える。その輝きを見るのが高次元の喜びのようです。

 

変わるために混沌は必要。わざわざ用意されたその一部となってからそれを懸命に避ける愚かさ。神々が望まれた輝きの美しさは自分達に通ずるもの。それがないならどこに近づいているのか。それはきっと神々とは異なる方へでしょう。

 

三次元に居る限り完成はない。でもその中で美しく放射はできる。

 

自己肯定と自己正当化は似て非なるもの。そしてその器の中身が動く方向を決めるもの。樂が真理ならこの世は無いし、人の形として生まれることも無いです。楽は物質世界的なことももちろんですが、心の状態もそうです。

 

物質世界の仕組み上は変化の一形態である停止(ようするに心身ともに休みのこと)も必要です。問題は休み過ぎなことです。私もよくサボって叱られます。その後急に動き過ぎて疲れて倒れます。脱線したので元に戻ります。

 

自分で動かさなくても今は動かしてくれる他者が存在しています(仕組み上そうされています)。もしそうでない世界に変更されたらこれは恐ろしい。自己正当化しかしない者しかいない世界。自らの内に見つけられない限り変われない世界。私には救いの無い地獄にしか見えないのですがそれが人の望みなのでしょうか。

 

最後にもう一度繰り返しになりますが、自分軸とは自分を仕組みの本流の中に置くことです。流れの外れでくるくる渦巻く水の中にではありません。

 

追記

荒れ地を開墾しておけば時間が経って草で覆われても一度人の手が加わっていることがわかります。これはそこで生きる人達にとって大きな意味を持つことです。すぐに畑にして大地の恵みを得られますから。開墾は辛い作業ですがいつか誰かの役にとの想いは明日への強い力です。

 

霊的開墾とでも呼ぶべきものの話なので何のことかさっぱりだと思います。私も今多くの方がわかるように書くつもりがありませんから。