ほわほわ神社生活

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神社が暮らしの中にあるおっさんのちょっとだけ変わった日常です。主に岡山県広島県の神社巡りをしています。神社巡りの記録や神社のことで思うことを書いています。

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こちらとあちらの約束事

三次元と高次元では約束事が多くあります。人間に教えていることも教えていないことも。今日はそんな話。

 

目次

 

【システム構築】

物質世界を創られる時に物質世界のふるまいを決め、そこに生きることになる三次元生命への関与の程度と方法を次に決められました。神仏が好き勝手にすれば三次元生命が混乱するために、物質世界での自然現象の中に自分たちの意志をあらかじめ反映しておくことで、そこから人間が学べる配慮がされています。故に随分と後の話になりますが、様々な自然現象に対応する八百万の神々に対する信仰が生まれました。不可視の存在と不可視の働きの関係をおぼろげながらつかんでいたのです。

 

人間の能力が制限されているから、神仏は特別な場合に自分たちの関与の割合をかえることができるシステムを完成させるべく次の段階へ移行しました。

 

それが高次から天下った者(人間)を介した介入要求権限の教育でした。

【対宗教者】

こうした行為にはこう対処すると神仏が決められたことがあります。これが約束事で宗教上の様々な儀式(行)がこれに当たります。約束事に沿っている限り、一定の結果がもたらされるようになっています。本当は違いますが人間からはこれは法則に見えるようにされています。

 

約束事ですので、宗教者自身の状態に無関係な部分が含まれています。つまり、心の状態が神仏から見て眉をひそめるものであっても、行為がきちんとしているなら結果となって現れます。宗教者に対しては学びと実践に払う労がありますから、それを考慮していわば特典としてこうなります。約束事のシステムですからそれに物質次元から関与する間はという条件付きです。

 

つまり、この世を離れてシステムに関与しなくなったら、その人間の霊性が非常に厳しく評価されるようになるということです。正確にはこの世にある間も厳しく評価されているのですけど、人間側から神仏側に関与するものが一定数必要だからその問題はあまりにも酷すぎる場合を除いて不問にされていただけなのです。

 

そこがわからず、あるいはわかっていてもいつしか忘れ去ってしまったならそれまでです。そこが宗教者が己に厳しくあらねばならない理由です。思い上がったら嫌われることは一般人の比ではありません。一般人より上の存在と認められているのではないのです。悪い言いかたをすると神仏の道具です。思い上がった道具は大事にされるでしょうか。神仏にとって大事なこちら側の協力者でいるのは厳しい道でしょう。

 

道具として役に立っても人の学びのために役に立たねばそのための別の存在を神仏は用意しないといけなくなります。

 

それが人々に様々な高次の情報を伝えるお役目の人達です。この時期に急増したのはちゃんと意味があったのです。この点に関してはそれぞれの分担だけすればよく、無関係なことは一切教えてはもらえません。

 

#宗教者は本当に大変な道へ入っていると思います。高慢にならず謙虚に己の信ずる道を歩み、他者の助けとなるべく日々しっかりと生きている多くの宗教者には心から敬意を払います😌🙏

 

追記

補足です。宗教者個人が協力者として申し分ない場合は当然一定以上になります。対一般人向けの中にその説明を兼ねて書いてはいたのですが、わかりやすく追記しました。

【対一般人】

高次元存在は一般人にはあまり厳しいことは要求しません。宗教者よりもそのための勉強をしないですむ分簡単な方法でよしとされます。基本的に心の在り方とそれを現わす行為だけです。利己の極みであれば特段の事情がない限り無視されます。利他の極みであればなんらかの手助けによる変化があります。

 

こちらは神仏各自の裁量の範囲でのことになりますから、こうすればこうなるといった形は不明瞭なものになります。

 

ただし、各自の成長のため起こることは変えられません。そのために良き心の者が苦労することが起きます。それでも多少の配慮はしていただけることが多いように経験上思います。ここは外部から見ただけでは判断できない所です。

【高次から三次元へ】

少なくとも我々程度のいる世界では、何かわからない宇宙の意志とかいったものが何でも我々が思う良いことをその通りにしてくれることはありません。全て我々よりは少しだけ(三次元人の感覚では途方もなく進んではいますが)成長した存在の制御下にあります。そのシステムの上で神仏も人も共に歩んで行くのです。

 

その上で、高次元から三次元で必要なことの指示がやむなく出されることが時々あります。この場合、伝達する者を使います。約束事はこちらからだけではなく、向こうからこちらへも当然ですがあるのです。

 

神仏に顔を向けていないとそれは聴こえません。何かあった時に聴いていないと言ってもそれは言い訳になります。

 

神仏を闇雲に恐れることはしないでいいのです。ただ、向こうも意識ある存在だということは心のどこかにとどめておいてください。

 

【おわりに】

日本人はバチという考えをいつ捨ててしまったのでしょう。人が人に強制するための方便の側面はありましたが、同時に忘れ去ることができない他の理由もそこにはありました。

 

普通の人が守らねばならない約束事は本当にわずかにしてもらっていることのありがたさを忘れないようにしていきたいですね。