ほわほわ神社生活

ほわほわ神社生活

神社が暮らしの中にあるおっさんのちょっとだけ変わった日常です。主に岡山県広島県の神社巡りをしています。神社巡りの記録や神社のことで思うことを書いています。

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システムの無い師匠と兄弟子(姉弟子)との関係

前回記事の補足です。

 

普通に神社にお詣りしておかげをいただいてもそれだけです、だいたいは。三次元存在の意志を無理やり捻じ曲げるようなことは神様はされませんから、関与は二歩も三歩もひいた所からちょっと後押しされるくらいです。とんでもない人間だと特になにもされません。人間からみたら公平な扱いに思えます。

 

特別な関与となるには、こちら(人間)から上の関与を求めないといけません。しかし、神様にお願いしたら誰でも特別扱いではないのです。

なぜなら特別な関係とは、師匠と弟子のようなものなのです。

 

仏の世界ではこの次元に弟子になるシステム=仏教が確立されています。記紀神話の神々の世界では仏の世界のそれと同様のものはありません。神職は? と訊ねられるでしょうが、仲介者は個人的な関係(役割)とは違いますから同じではないのです。

#上のイラストは仏教の卒啄同時(そったくどうじ)です。神道でこうしたイラストを探してもなかなか見つからないと思われます。

 

神社で神々に人生のご指導をお願いし、その代わりに神々の指導には素直に従うことを約束するとその人を見て特別に関与するか神々が決められます。神々ご自身でこの世に自由に干渉すると、この世に人がいる意味が薄れます。ですから、自分達が特別に関わるために代行者を設ける場合には以後細かい指示が与えられることになります。

#神と人とごく個人的なようでいてもっと大きな意味を神の方はもたせます。人の方はそれに気がつかないことが多いでしょう。知らず識らず役目をおっていたということです。

 

私も特別扱いをとお願いしてもその人の能力や意識で適正を判断されるのは何故かと言うと、”何故か私の人生が上手くいかないのを一発逆転してすごい人生に"みたいなエゴは問題外だからです🙅

自分達神々を自身の道具にしようと思う者に従う神はおりません。

 

前世の縁で今生でも継続することもあるようですがここは詳しく知りません。

 

指導を受けてやっていくのですから、師匠と弟子のような関係になるのです。だから多数ではありえないのです。同じ人間でも師が弟子を導くのは大変でしょう。神の弟子だともっと困難なのは想像できるかと。

 

弟子の人間の方は師匠の考えを把握するのは大変です。指導する神々はそれをご存じですが、知っているから楽ということもないようです。なにしろ、人間は基本、無知で怠け者で傲慢ですから😅

 

神によって、優しくこんこんと説く方もおられれば、厳しくつき放すような方もおられます。自身の弟子には、神々は無機質な顔とは違う、高次元とはいえ人間らしい姿を見せてくれます。自身の師匠がどんな方か弟子はつかまねばなりません。素晴らしい師に教えていただける喜びと師の期待に応えなければという重圧、少し違う喜怒哀楽の人生の始まりです。

 

こうなると、この次元で参考になるもの、頼れるものがもう本当に少なくなります。だから安易に神との特別な関係を望んではいけないのです。望んで結んだ以上は簡単に無しにはできません。どうしても駄目な時には解消もできるかもしれないです。でもそれは、神などいないと言う人よりも神と離れる人生になります。それを思うとぞっとします。

 

さて、神社で神々と師弟関係になったなら、同時に関係を結ぶ存在がいます。ご眷属様(神使)です。

 

ご眷属様はそこの神々に憧れ、敬意を持って神社にやってきます。ここは人間とも同じですね。弟子入り順では先輩ですから兄弟子(姉弟子)になります。当然、ご眷属様からもあれこれ(主に態度の面で)指導されます。むしろ、神様から直接よりはご眷属様からの方がはるかに多いかもしれません。〇〇道といったものでは創始者(何代目)ではなく普段は師範代から学ぶようなイメージでよいかもしれません。

 

このブログの初めの頃にこんな記事を書いています。もう二年前ですか。

 

a-wi.hatenablog.com

ご眷属様を神様より格下と軽くみてはいけません。こちらは初対面のつもりでもそうでないかもしれないし、初対面ならじっと見られています。あまり緊張してペコペコしなくてもいいですが、敬意の欠片くらいは持っていてください。神様にお会いしたくてやってきたとしてもです。

 

存在が違いますから、職場や部活の先輩のような関係とは、そこの神社によって違うと思いますが自身はあくまで新入りです。

 

神様ともご眷属様とも関係はその神社ごとに違うのですから、誰でもその通りにすれば大丈夫なひとつのシステムなど構築できるはずもないのです。逆に、それが神道の最大のメリットだと私には思えます。

 

ここまで書いていたことはある人には似たようなケースになり、ある人には全然違うケースだと思います。あちらのことで知っていることはあくまでも自身がそう知っていることです。他者が違うからという理由での否定はあまり意味がないです。

 

神社にお詣りして神様に何か思うことを話して気持ちを新たにして今日と明日を生きる。これくらいが一番楽しく、あちらの次元とこの次元とのバランスよく生きられるのかもと思います。でも神々と関係が深いのは過去からの全てが結実した故なので、なるようになってみるのもまた人生でしょう。

 

こんな説明で前記事よりもわかりやすくなったのなら嬉しいです🙂 補足の方が数倍はある😅