ほわほわ神社生活

ほわほわ神社生活

神社が暮らしの中にあるおっさんのちょっとだけ変わった日常です。主に岡山県広島県の神社巡りをしています。神社巡りの記録や神社のことで思うことを書いています。

MENU

存在しない権利の主張は誰に向けられているのか?

なんのことかと言えば、自由に死ぬ権利のことです😔 人の寿命は決まっています。自己都合で変えることは明確なルール違反です。記事タイトルは、存在しなくなる=死を選ぶことと、権利としてそもそも存在しないものの両方を表しています。

#あちらと協議の上での変更は絶対にないわけではありません。容易なことではないと付け加えておきます。

目次

 

【自分の命?】

自分の命というものは存在しません🙅‍♀️

 

こう書くと生きているのだから命はあるし、自分の身体だから自分のものだと主張する人もきっと多いでしょう。というよりほぼ全員かもしれません。

 

命は器(身体のこと)を動かすエネルギーのことで、中に入っている存在そのものの力になります。自分とは違う何か命という見えない固まりがあるのではありません。器は各自に貸し与えられているこの世のための道具にすぎません。寿命は器に設定された使用期限をそう呼んでいます。

 

他の存在とエネルギーがあれば道具である器は使用期限までは動き続けることが可能です。飛行機をイメージしてください。機長が操縦しても他の操縦士が操縦を代わっても飛行機は何も変わりませんし、飛び続けます。この場合だと動かしている”自分”は一人ではないのだから自分(だけ)の命は当てはまりません。これに該当する人数は少なくてもそれもシステムだから、自分の命(器)だから自由にできるを根拠にした主張は侵害あるいは越権以外のなにものでもないのです😔

 

繰り返しになりますが、”自分の命”などというものは存在しません。期限付きの道具を内部のものが動かしている状態を生きると三次元限定でそう呼んでいることからの錯覚です。

安楽死尊厳死、自殺】

寿命が来るまで生きないことは全て何かしら問題があるとのことです。上で書いたように、間違っているのは自分の命だから自分に決定権があると思い違いをしていることです。

 

今の人間は自分が思ったことはその通りにならないとおかしいと思い、他人が自分のためにそうしなければならない権利が自分にある、がおかしいと思っていません。

 

そうではありません。車で説明します。

 

あなたはレンタカーを旅行先で借りました。自分が手配したのではなく鍵を渡された車です。長く乗っているうちに細かいトラブルが起こりました。嫌になったのでもう動かないように壊して乗り捨てました。これは全部車を用意した誰かが悪い!

 

この主張は当然だと思えますか?

 

車と人は違うと言いたいのは百も承知です。でも向こうから見たら何も違わない。許されていることと許されていないことは何にでもあるという話です。

 

安楽死尊厳死、自殺は同じようで同じではないそうです。行為と心がどうとか。どう違うのかは書きませんからご自身で考えてみてください。自殺は一言で片づけられる問題ではないのは確かです。

 

追記

一律といいがたい部分まで一律のように最初書いていましたので、一部書き直しましたm(__)m

【この世とあの世の循環】

この世は己が動くことで学ぶ場です。そして場を使うルールが幾つか定められていて、それに則っての行動が求められます。場の維持のために各自に求められていること、これがこのブログで責務とよく書いていることです。

 

本の学校で皆が掃除しているのを見て不思議に思う国もあるらしいですね。これは、日本では皆で維持している世界だと言葉でなく誰でも形で理解できるようにしているのです🙂

 

この世で各自が学ぶ中で果たすべき責務はあくまでもこの世限定です。駅伝のたすきと同じで、自分が終えてこの世を去る時に次のこの世を生きる者へと渡されていくのです。こうして人が巡るのがこの世とあの世の決まりです。

 

寿命前にたすきを放り出したり、無関係な者に渡すとつながらないから正常な進行を妨げます。

 

それはこの世だけでなく、当然ですがあの世側もそうなります。走り終えたランナーの世話とは違うことになりますから。

 

あちら側だけでは大変なためにこちら側の専門家が今も新たに動員されているのが現状なのです。

【結論】

社会は、自分が楽であればいいを越えて自分が楽でなければおかしいまで来てしまいました。楽しみは己が、苦しみはお前がの我良しは神仏の心とは遠く離れてしまっています。

 

自分の命と言いながら、自分の人生(命)を楽な間は肯定し、苦しくなれば否定する。これのどこが自分なのか。

 

途中で終了することの大きな理由である重い病気の苦しさは誰もすすんで味わいたくない三次元の付属物。私も正直に言えばあまり味わいたくはありません。でも三次元にいるから人生によっては受け入れるしかないと思っています。

 

霊のことはいろいろ教えてもらいましたけど、本当はまだわからないことだらけだと思います。あえてこちらにわからないようにしている部分は間違いなくあります。だから主張がお願いにもなり、命令にもなる。その相手が誰なのかを思うととても難しいことです。

 

自由に死ぬ権利はない。それは裏返すと、あなたという存在が否定されていないことでもあります。死ぬのはちょっと置いておいて、ここだけはじっくり味わってほしいです🙂