この世に生きるものには喜怒哀楽が備わっていて様々な状態を体験できるようになっています。学ぶためですので、しっかり学んでしまえばあとは(常に意識を向けることは)不要です。不要になったものを持ち続けるのは錘にしかなりません。船でいえば碇⚓です。
喜怒哀楽の中で一番問題になるのは怒です。コントロールが難しいのも怒りです。ですが難しいだけでできないわけではありません。どこから発してどこへ向かうのかをきちんと見ていないから難しいと思っているだけです。
ある程度まで成長すれば本当はそれに応じてきちんと見えるのです。それが見えない理由は簡単で、見ないからです。怒りを見ようとすると、とても不都合なことと向き合う必要があります。今の人間は特に、わずかでも不快なものを避けるのが賢い、正しいと勘違いしています。
不快こそ己を成長させる宝の山なのですが、掘り出すのが大変だから多くの人は嫌がってやろうとしません。なぜなら、己の欠点と向き合う力を充分に育ててこなかったからです。
#普段ここまで言わないのは、難しすぎる環境で時間がかかっている人もこの世には多く、それを責める権利は誰にもないからです。
人間にとって実に楽に何かを成した気になるのが、一見正義に見せかけた”ね流し”です。その主張は怒りなど全くなくても可能です。なのになぜそうするのか? 外部に怒りを出す間だけは内部の怒りを発生させる欠点だらけの己を無視できるからです。これは個人の成長には全く結びつきません。
理由はひとつ。怒りはその場に碇を落としてしまうからです。実際の船だと碇を下ろすのは港や泊地といった浅い海です。収めておける綱や鎖の長さの問題もあってそうなります。
心の場合は違っていて本人の霊的な成長度によって、この綱や鎖の長さはかなり違ってきます。成長を意識することなく生きている者の長さは短いです。落ちたらすぐに底に着いて長さもちょうどその長さです。動けませんが元々(霊的な)動く気がないので落ちていることに全く気がつきません。
反対に、成長を意識している者は落ちても綱や鎖が長いからずるずる引き出されつつ動いていけます。全て出されてからは抵抗で進行方向がやや変わります。ですが長い分穏やかな変化のためにこちらも本人は気がつきません。大きな円を描いてぐるぐる回ります。本人は自分が動き続けている=成長と思い込んでいますけど、実際には同じ段階の体験だけがどんどん溜まっていくだけです。本人が望んでいるような成長は残念ながらあまり望めないでしょう(ずっと先の自分にとっては全く無駄というわけではありません)。
碇を上げるのにそこから引っ張ってこれたら楽でしょう。でも動かないようにするためのものだから、上げるには一度碇の上まで戻らないといけなくなるのです。もっとも、一度きちんと気がついたら戻るのはどちらの場合も容易ですからそれはあまり気にすることはありません。
と書いた所で上記の否定を。碇を落として走っていると他者が落としている綱や鎖と絡まってしまうのです。ほどけないでしょうから切断になるかと。結局、己の間違いが他者の負担を生んだだけになります。ある程度成長を感じている段階の者がおかしてしまうミスのひとつです。そうなる前に他者から落としていると聴くことは大事です。
自分には指摘してくれる存在はいないと思われましたか? 同じこの世の人間からも守護霊からも常に指摘されていますよ(私も頻繁に妹から指摘があります)。
ここまで読まれたら、何も心を動かさずにただぼうっとしているべきなのかと思われるでしょうが、それは正しくないです。怒りをそのまま使うのではなければよしです。怒りは気づきのきっかけに使えばいいだけですから。
何かに不平不満を言うのは誰でもできます。外ではなく内を変えることに使うべきです。自分から他者への”ね”のリレーはやめましょう。
幼くてわからない者は今はまだ仕方ないと思われています。もう一方では、成長してわかってはいるけど、これが自分などと言い訳すると次からはきちんときいてもらえなくなります。誰がきかないのかは書きません。これくらいのことを素直に認められないとそれまでなのです、悲しいことですが。
人生航路は決して穏やかではありません。進むための櫂や帆、舵もいれば、時に休むための碇もいります。己がきちんと進むよう努めるのは大事なこと。己という船に備わるものはどうかきちんと使ってください🙂