黄金の美は最初から金に輝くそれだけ。玉虫の羽の美しさには劣る。それは常に作り変えられてきた美だからですね。具体的には幼虫が栄養を蓄えて蛹の内で色を生み出した結果です。そこに綺麗になりたい意志はありません。
固定されていない美はシステムの働きを現す故に美になるのですが、システムに問題が起れば美も一時的でしょうが消えるのです。
この世のシステムも別次元のシステム(本来ひとつですが人間からは別れているように思える)も修正真っただ中なのは確かです。どこをどれくらいは分からないですが(私には)。
手伝いを望まれて応えられる者は恐ろしく少なく、その少数をもって当たるのではより長期間で緩やかに、あるいは短期で激烈な処置になるのかと。書かないけれど想像してください。
望まれる者の資質はそれほど大げさなものではないのです。豊芦原瑞穂国の民なら、豊かで清らかな水に触れると安らぎ、草木の花に心を緩め、鳥や虫の声に人と同じ想いを感じる。一人の弱さと皆が力を合わせる強さ喜びを知り、貪らず和こそ明日へ繋がると”考えることなく理解”している。神仏に見守られる嬉しさと同時に、人も神仏に喜びを与えることができる”魂としてみれば同朋”と知っている。
簡単なことです。多くの人には可能性も最低限の資質も芦原中国に生まれてきたことで最初からありました。でも、反対のことしかやらなかった。
この世には無限の色があるけれど、それを見るには”見えていない色に満ちている”と分からねば見えないのです。
アリとキリギリスの話をしますが、以前どなたかのブログのコメントで書いた気がします。
アリはなぜ己が物質世界を所有できると勘違いしたのか。キリギリスはなぜ己の外にあるものを所有物と勘違いしたのか。
アリは己のそばにある食料をキリギリスが食べる分渡せばよかった。キリギリスは相手の心を満たす歌を歌ってお礼に渡された食料を腹に入れればよかった。お互いに足りないものは持っていたがどちらも勘違いした結果不幸になりました。ここでアリは歌が嫌いとかつまらないことを思った人はどうぞそのままでいてください。
この世はまだ修正可能だろうと信じています。アリとキリギリス双方が変わればです。片方ではおしまいです。
明日世界が終わったとしても……それまでを受け入れられるように今日満足して眠りにつけばまたいつか次回があります、きっと。それには不平不満で己を作り変えないことが大事。エネルギー的嘔〇物を吐くなと前に一回だけ厳しい調子で書きました。あれから眺めていますが、毎日吐いている人はやはり吐くことしかしていません。それが楽ですからね。私にも経験があるのでわかります。
呼吸は吐かないと吸えませんが、よいエネルギーは浴び続けることが可能です。よいエネルギーを満たして他者へ送ると自分という者がシステムの内で正常(清浄と同じ音なのは意味のあること)に動作できるでしょう。それが管理者である神のシステムに沿った生き方、すなわち、かんながらの道です。
#これ以外の生き方も全否定されていないことも書いておきます。
修行? 術? 極端な言い方をすれば不要です。人は心というツールを持っていて自由にできるのですから。大事なのは技ではないのです。大いに助けてくれるものも勿論ありますが、絶対のものではありませんから。
タイトルの無限の煌めきとは、周囲ではなく己の内の無限の煌めきを外に感じている状態を指しています。よく一瞥体験で眩しく感じたというのはこれです。急激な体験なく、常にそうなることは可能です。
さて、わざと抽象的に書いたので、読んだ瞬間に忘れて行きますね、これだと。
箇条書きにします。
・エネルギー的に嘔〇しない。
・貪らない。
・他者の力を利用せず借りる。
・他者と力を合わせる。
・怒りの再生産をしない。
箇条書きにすれば簡単っぽいイメージにできるかと思いましたが難易度が高い無理ゲーの匂いがしますね😅
#神社巡り記事書けないと説教ばかりになるので、早く忌があけて神社に行きたいなと思います。