ほわほわ神社生活

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神社が暮らしの中にあるおっさんのちょっとだけ変わった日常です。主に岡山県広島県の神社巡りをしています。神社巡りの記録や神社のことで思うことを書いています。

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幸せのありか

ブログを始めていくらか経った頃から目次をつけて書くようになりました。今回はそれをやめてだらだらと書いていこうと思います。段落の繋がりも深く考えません😅

 

「幸せのありか」

 

私は一瞥体験後に悟りについて少し勉強して瞑想に入りました。そのまま仏を目指すのではなく、途中で離れて別の道へ進みました。それは平行しているので当時の延長線上を眺めることもできます。

 

心の変化はとどまることなく続きました(現在も)。ある頃から頭の中は空っぽになりました。思考の暴走に苦しむ一部の精神疾患の人には辛い話かもしれませんが、目を閉じるとそこには何の邪念もなく澄んだ空間が広がっているだけです。

 

そこで何かを考えようとしたと同時に思考は起動し働きます。止めるとまた即座に空間だけに戻ります。この動きは驚愕的な速さのため、通常ではとらえることが不可能です。

 

人間の思考(自我でもかまいません)は単なるツールに過ぎません。生まれてから組み上げられたプログラムです。これが休むことなく働いているためにそれが自分自身の霊的な部分だと勘違いしているのがほとんどの人の現状です😔

 

上でツールと書きました。ツールだからコントロールは可能です。それを行っているのは思考(の一部である言語)を介さない意識=内の霊体です。思考を自由に止められるようになる(実際には止めるのではなく不要な時は起動させないです)とそれがぼんやりと浮かんでくるので思考でない意識がかろうじてそれをとらえることが可能になります。

 

思考はそれでも己が生んだものだから己の一部だと思うことでしょう。これも間違いです。ツールという言いかたをしているのはそれが物と同じだからです。本当のことを書くと、人間と言う器で一時的な貸し借りだけでなく、譲渡することさえ可能だからです。信じがたいでしょうか? 

 

非常に多くの人にとっては己の自我(というツール)が己です。一部の人にとっては己の自我は己ではないのです🤫 多重人格と一般に思われているものとはまた違う霊的な話ですが、ここでは書くことが出来ません。

 

最近は”ワクワク”という言葉が流行です。自分が楽しく没頭できることをする(体験)ことが魂の望みなどと言われていますね。さて、この自分は自我というツールのことでしょうか? それとも奥深くの霊体でしょうか? 

 

ツールが実行して出した答えと霊の自分が望むものは、はたして同じものなのだろうかとよく思います。人それぞれですので、中にはそういう人もいるでしょう。違う人はツールを特定の実行方法で使うことで得られるものではワクワクしないと感じています。

 

何か間接的なメリットがあるのかもとは思うのですが自分で確かめることが少し困難になっているのに困っています。

 

ほぼ全ての人にとって、自分そのものである霊で考えることは不可能に近いと考えています。なら、どんな自分(ツール)であってもワクワクすることを選ぶのが良いのかもしれません。とまどって時間を浪費するより体験するのが大事ですから。

 

物質世界なので幸せと言った場合、物に恵まれているかどうかを基準にする人が多いです😑 これは率直に言えば間違いです。乞食がいる社会でそれと反対の何不自由ない暮らしのできる王子が家を捨てて修行者になったのだから、物が人間にとって絶対的な幸福の条件ではないことがわかります。

 

金をかき集めれば安心が得られてそれが幸せだと思う人が多いですが、金はこの次元にしか存在しないものです。霊的な満足と同じならば、財産を捨ててそれを求めた過去の人々の探求はなんだったのかということになります。

 

金や物は単なる一時的な刺激です。刺激によって思考が素早く反応する。そこに永続はありません。幸せは喜びとは違うものです🙂

 

結論を途中で書くと、幸せのありかは外部ではなく内部です。これから内部について書いていきます。

 

内部と聞いて人が思うのは自分の肉体という器の内側です。体の輪郭が外部と内部の境と思っています。これも間違いです。

 

思考を止めた時に広がっているのは三次元的な意味での空間(距離)ではないのです。広いとも言えるし、狭いのかもしれない表現がとても困難なものです。

 

人が内側と思いこんでいるのは器の内側(の広さ)です。そうすると世界に比べてなんとちっぽけなことかと思うはず。内側には多くの物などあるはずがないと思ってしまう人が多いのです。

 

では内部は例えば無限に湧く泉だとしたらどうでしょう? 不足とは無縁ですね、溢れている。ただの器=肉体が幸せを感じるのではないのはさすがに言うまでもないでしょう。霊的に良いエネルギーが霊を満たしているのが幸せです。これは単に高波動であればよいというのとはまた違います。

 

エネルギーは器を越えているものなので外部と内部という区別はあまり意味がなかったということになります。元々、ひとつのものを分けているだけなので、ある程度の段階まで来たら分かれたものをまとめるとまたひとつという想いに目覚めてきます。さんざん宗教やスピリチュアルなもので説かれてきたことなのでこれくらいにしておきます。

 

内部も外部もなく全ての存在に究極的には明確な区別はないと知ると自然にエネルギーは流れだすのです。

 

しかし、常に不足している人がいます。内部の泉が涸れている人です。より正確に表現すると内外の循環が上手くいっていない状態です。それも当然、己だけは安心、幸せをと思う気持ちが強くなると流れが変わってしまうからです。ためた金貨は光っていることでしょう。が、エネルギーである己はその時淀んでいるのです。堰を造ればそれも当然です。

 

今は貨幣の仕組みがあるのでそれを否定して生きるのは難しい。それとは別の流れを意識して生きねばということです。バランスの問題です。

 

人を満たすエネルギーは和のエネルギーです。これが幸せの元です。土地と神と人のムスビがこの世の姿とさんざん書いてきたのはこれが理由でした。この場合の人は己や家族という狭い範囲をさしていません。神と書いていますが、他の人間の霊も含めてです。

 

これは神社の神様を信仰しろと言っているのではないですよ、念のため。強制は無意味なので言わないのです😌 神社で説明するのは趣味みたいなものです。

 

他者がいて己が体験でき、己がいて他者が体験できる世界の仕組みがあること。それに沿って生きることがワクワクで幸せなのでしょう、たぶん😙

 

追記

十数年前の私もお金や物を抱えようとしていたのを書いておきます。