前回のだと少々誤解を生むと思ったので補足に短めの記事を。
自分がこう思ったと発言することは自由ですし、誰かが制限する権利もありません。ですが、好悪の区別が自分でわからない人は本当に多いです。自分がこうだったから他の人もそうに違いないを理由にしてはまずいと先日書きました。
理由は、自分がこう思った(だからいいことなんだ)は他の人にはそう思わない(よくない)ことだからです。ここではこの世の善悪正誤は問題にしません。発言がどこへ向かうにしても過程を重視しているからです。
自身の体験は他者とは異なりますから基本的にそれは合わないエネルギーの流れになるのです。合わないことを問題にするのではなくて、合うにはどうするかが大事。
合うのは何かというと、意見よりもそれを発する意識の波のことです。初めは違うエネルギーが攻撃(己の思う正当性=怒りをもって)ではなく相手に送りあうことで次第に同調して近いものになっていく。これが和です🙂 下のイラスト、人と動物を選んだのは和に人かどうかは関係ないことを示すためです
ネガティブな思念をもって相手を攻撃するのではなく、相手に贈りあうのが和で、これは正直に書くと現代人にはとてつもなく難しい。だから、今は好悪での発言は控えないと普通の和ではどうにもならない所へ行きついてしまうと思いました。
好悪は難しいと書いていますけど、実は小さな気づきひとつで大きく変わるものです。ただ、これは怒りという簡単な手段に逃げていると辿り着けないでしょう😔
器があるのでこの次元、無いのであちらの次元。この世はあの世とのセットの半分? その中で自分が知ることがわずかなものと思うと、自分がこうだったから自分の意見は他者より尊重されて当然のような驕りは生じないはず。
自分ではそんなつもりはないと思うのが人間です。で、神仏の判断に比べることもできないくらい未熟な意見なのも人間。完全である必要はこの世ではありません。というよりは、不完全で当然ということかな。
違うとはどういうことなのだろう? 己の中だけではそれは見つけにくい。だから人を内に取り込んで見つけないとわからない。そこに自他の上下はない。
初めに結論ありきではなく、自然に変わって辿り着いた場所が和です。そこを忘れずにできるなら自己と他者の経験はこの世でも充分に生き、なぜ魂が次々に分かれることになったかをおぼろげながら理解することもできるでしょう(と思います)😄