ほわほわ神社生活

ほわほわ神社生活

神社が暮らしの中にあるおっさんのちょっとだけ変わった日常です。主に岡山県広島県の神社巡りをしています。神社巡りの記録や神社のことで思うことを書いています。

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外のわれよしにも負けず内のわれよしにも負けず

神社で開運とかパワースポットで力を貰おうとか言われるようになってもう長く経ちますね。この間、神社(神域)で放たれた”われよし”の念の総量はいったいどれくらいになるのでしょうか? おそらく想像を絶するほどのものだと思います。

 

逆の念を放てばよいのですが、神社に着いてから理想的な状態にするのは多少訓練がいります。ですがそれはしょせん付け焼刃。そうしないですむように日頃から己を変えていこうとしている人は今の日本人にはほぼいませんとのこと(妹談)。これではわれよしの念は社殿に、境内に、深く浸み込んで行く一方でしょう。

 

街中の小さな社では神々とご眷属様の力で維持しようとしているのは前の記事で書きました。本来はその地に住む人が日々お世話をすることでよりよくなるのですけど、それを吹き飛ばすくらい他所から持ち込まれると苦しいことになるでしょう。そうなると地元の方々がお気の毒で。遠くでもお礼詣りをしていい酒を持っていくのは、他者の行いを損ないたくないからでもあります。

 

私はちゃんと神様に感謝していますと思っている人は結構いるのではないかなと感じています。それは神という対象に対してであって、神が管理しているこの世(とこの世に生まれてこれたこと)ではないですよね? いつもXやブログで、己がけしからんと思う物事や人に文句を言っている心は感謝からは天と地ほど離れているとしか言えません。神前とそれ以外の場で矛盾した態度が好ましいものではないのは、それがわかる存在には当たり前でしょう。こう書くと私の文もそうなってしまうけど、これは三次元の限界ですのでたまに書くこうした文章はご容赦を。

#問題を無視しろと言っているのではありません。対処は必要と思っています。そこに怒りは不要。怒りと共にでないと出来ないと思い込んでいるのでしょう。怒りをシステムに沿ってあえて使用することができるのは高度過ぎて現代人には期待できないらしいので、不要段階をいつもすすめています。

 

穢れを神様が嫌われると知っていても、高次元意識体(神)にとってもろに影響する汚い思念(穢れ)を発することをどれだけ指摘されても”ありのままの私でいい”とか言い訳を駆使して絶対にやめようとしない。己の不幸を嘆けば嘆くほど汚い思念を放つ=神々に間接的に不平不満をぶつけるということなのだから、今己に起こっていることが解消の方向へ進むとはとても思えません。

#己の状態が好ましくないのと上の助けが得られないから無理もないかと。

 

神社にお詣りしたのに全然叶わないのはこうしたことをやっているなら当たり前です。ご眷属様に嫌われてシバかれた人を見たことがないのかもと思っています。

 

われよしに負けずとは、他者のそれと共に我のわれよしな心にも負けずということです。文章にすると一文ですが、これができたら今頃この世は別世界です。私も三次元存在なので酷いものですけど、寝る前にその日の反省をしているから、昔の私よりは前に進んでいるのは確かです。まあ、どこまでかは自身ではよくわからないものですが。

 

ここでの落とし穴は、私はこうしたことを考えているから綺麗なはずとのカン違いです。本当に何をしても問題ばかりですよね。でも、もがくのがこの世ですから、そこは多少大目に見ていただけることでしょう。

 

今回のも含め、だいたいこうした記事は日本に暮らす日本人の成人向けです。成人の心の責任はとても重いですから。

 

あと一か月で正月です。生まれ変わるいい機会です。生まれ変わろうとするのは生きている間の特権です。

 

追記

つまり生きていること自体を禊にしろと言っているわけで、自分で書いててこれは無茶だろうと思っています。