ひとつ前の記事からの続きになります。
神々が日頃から手取り足取り指導されることはないことは以前書いたと思います。特殊な存在以外にはヒントを与えて考えさせるくらいの関与が限界なのだと思います。ではご眷属様はどうかというと、こちらは具体的な指示をされます(それが多いです)。
#稲荷のお狐様と人の関わりについての話は数多く残されているので、そこからわかると思います。

神と人の間で働かれているが主は言うまでもなく神なので、人間に対してはより高次元の存在であることもあって、自身が上のものとして厳しく話されることが多いのでしょう。
#ご眷属様によってはもう少し優しい方もおられるようですが。
人間に直接関与できる神様世界の存在であり、人が軽く見ていい存在ではありません。このご眷属様も神々の降下によって特殊な経験をしていると聞いています。
神々が分身を器に入れて人間となる時には意識は人の段階に抑えておられます。そのために力の放射は人と変わらず、ご眷属様もこの状態では気がつかないようです。
分身が特殊だった場合は目的のために設定された時に人を越え始めます。意識の段階は上昇を始め、放射の質と量は次第に人以上のものへと変わっていきます。ご眷属様はこの段階になると放射するエネルギーで普通の人ではないと気がつくのだそうです。ですが、自己の認識がまだ人と思っている場合はあくまでも眷属が上であると振る舞うのだと。
何らかの神通力、霊能力がある分身だったら、人である自分にご眷属様がおかしな態度をとっているがなぜだと混乱させてしまうから、おまえは変わった人間だなくらいに威厳を持って接するお芝居をするしかないようです、わかっていても。

では分身が目覚めて自身が何者かを理解している時はどうなるのかと言えば、それは自分達がお仕えする神(々)の三次元における姿(のひとつ)だから神に対する接し方に当然ですがなります。神社境内で分身よりも高い位置(例えば大きな台座上の狛狐)にいたら即座に低い場所に飛び降りたり、参道を歩かれている時はその脇に控えたり、分身が帰られる時は鳥居(玉垣の出入り口)の所でお見送りをしたりと礼を失することのないようにされると聞きます。
自分は三次元より高次元のもので、神でも三次元なら自分以下などとは決して思わないそうです。どこにどんな姿で存在しようがその存在はその存在以外の者ではない=己の主の認識がご眷属様の世界では当たり前らしいです。
神社に分身がやってきた場合には、上で書いた順に、黙って観ている→自分に気がついた時はわざと横柄な態度で接する→畏まってお出迎えする。これくらい違うのだそうです。
この分身はご眷属様から見れば高次元の本体と変わらぬ主。見た目は人間でも仕える相手ゆえに、その分身の意向には従います。ただし、分身が神でも三次元の認識(が混ざっている)で判断しているために、それが上の判断ではありえないことだとそのまま従うことは難しいとも聞きます。ですが、分身が自身の認識能力を知るゆえに、判断は眷属に委ねることもあるとか。それだとご眷属様は楽になりますね。
前記事で書いたように、自身の正体を知って活動している分身が過去に例をみないほど多数存在する時代のため、三次元の神と過ごす経験は今まで無くて今回が初めてというご眷属様も多いのだとか。

人間が神と神社に直接不敬な行いをできるのは神社まで来ている時に限定されます。境内で神に挑戦したり愚弄したり、あるいは神社そのものを故意に物理的に棄損したのでなければ別に何も起こらないことが多いようです。
しかし、人でもある分身の居場所は神社限定ではありません。高次元の神であれば問題なくても、三次元の分身はその存在そのものが諸々の危険にさらされます。護衛の任に着くご眷属様もおられるのです。
こうして護衛中のご眷属様の前で彼らの主である分身に何かしたらいったいどうなるのかを考えると少し怖いですね。おそらく三次元の主である分身はいちいち問題にはされないでしょう。この世にあるためにご眷属様の行動が知られぬよう(目立たぬように)制限するかもしれません。
主には従うご眷属様は無礼者に何かすることはなくても、非常に恐ろしい目をして見ているのだと思います。

ネットには特に理由が無くても実にお気軽に他者を貶めて楽しんでいる、心の天秤が神仏と反対側に傾いた者が多いです。ネット上ではなくてもそうした者は他者への攻撃を何らかの形で日夜行っているはず。それが人間同士なら相手との霊的な関係(解消していくべき問題)ですみますが、神と人であればさすがにそういうわけにはいきません。軽重という意味においてです。
物質の三次元の器は同じでも中の霊はここまで違います。でも中の存在による上下関係を持ち込んでは幼い魂が自由にできる場所がどこにもありません。同じ次元では管理側の神への無礼に対する結果も猶予されているのかもしれませんね。あくまでも同じ次元の間では。ご眷属様がいちいちバチを当てないのもそれだからでしょう。
ご眷属様は遥か高みにある神々の傍だけにいるのではないのです。神である魂のある所にあるのです。
今回書いていることで脅すつもりは全くありません。どんな存在も同じ人の器で過ごせる故に、ある存在が神かもしれないし、生まれて間もないこれから学んでいく人間かもしれない。魂の生まれ順がどれだけ違っていても、同じ場で三次元存在としてここにあることの意味を知れば、息をするように他者を貶める愚かさが理解できるはずです。他者がいてくれた意味ももう少しわかるかもとこれからの世に期待していいですか?
#相手がもし神だったらと怯えて暮らすことはしなくていいのです。人間社会では器の扱いは平等です。だから魂の生まれ順を気にせずこの世ならではの体験をしていいのです。神がどうこうではなく、他の魂、霊を軽く扱う己の心の在り方を問われているのですから、そこだけ考えていればいいのですね。重要なことは本当は簡潔に言えることなのです。

この記事は、神と人の世界は遠く離れているようでとても近く、様々な魂の様々な関係の中にあることをご眷属様を中心にできるだけわかりやすく書いています。上の存在への敬意と下の存在への(厳しさがある)慈しみを持っているご眷属様の姿から見習うべきことが何かあるのでは? と書いて終わります。