ほわほわ神社生活

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神社が暮らしの中にあるおっさんのちょっとだけ変わった日常です。主に岡山県広島県の神社巡りをしています。神社巡りの記録や神社のことで思うことを書いています。

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人生の終りに他者を思う尊さ

この世に生きていた人物を御祭神として祀る神社はそこそこあります。その中には人々の力になることを願った人が祀られている所があります。

 

以前記事にした岡山県井原市にある消渇神社御祭神の一豊姫がそうです。私は山陽地方の人間なので今まで知らなかったのですが、山陰地方には小那姫という御祭神が女性のためにおられました。

#下はイラストACにある日本の御姫様のイラストです。

a-wi.hatenablog.com

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小那姫は堀尾氏が松江城に移るまで(尼子氏の時代から)山陰の拠点だった月山富田(がっさんとだ)城に住んでいたそうです。婦人病が重くなり死を覚悟した姫は山を下りて少し離れた池で入水。その後起こったこと(言い伝え)が祀られている堤神社の現在へと繋がっています。

月山富田城 - Wikipedia

堤神社の由緒看板

一豊姫も小那姫も、自分と同じ苦しみにあえぐ女性を助けたいとの強い想いがあったようです😌🙏 

 

現代日本人は亡くなる時には残されるもののことだけ考えていますよね? もちろんそれは大事なことです。ですが、そこまででいいのかとも思うのです。見ている範囲が狭いのです。残されるものの中心になる家族はあくまでも基礎の基礎です。そこで学んだことをさらに外に広げることができるかどうかは応用。ここを軽視している人が本当に多いです。また、家族がいない(状態含む)と己の不幸をただ嘆く人もいるでしょう。そして、次に生まれた時にと願うのは己の幸福な人生。

#新たな人生で目指すもののために努力する等、その過程での学びがいろいろとあるから、次はこうしたいという願い=自己中=悪ではありません。ありませんが、現代人は少し妙な”己”に傾きすぎなのも事実のようです。

 

せいぜい家族までしか想いがない現代人と二人の姫の想いはもはや同じ日本人とは思えないほどの大きな差になっていると思います。目に見えない世界との繋がりの意味を忘れた結果こうなったのだとしたら、戦後わずかばかりの銭と引き換えに取り返しのつかないことをしたことになるのでしょう。

 

私はどちらに惹かれるかと言えば姫様達の方なので神社では長話をして友達になります(あたまがおかしい話に聴こえるでしょうけど本人は真面目にそう望んでいます)😅 

 

記紀神話の神々とは違って、それなりに強い力は得ていても心はまだまだこの世の人間に近いです。お願いは御祭神として真剣に聴いてくれますが、人間同士リラックスした世間話もできますよ。お詣り時には姫様に楽しんでもらえるような話もしてみてはどうでしょう。

 

神様を見習うのはあまりの差にほぼ全ての人が挫折すると思います。元人間の女神様から見習うのは人間ならできるはず。そこから己の内に尊さを少しずつ育てて器を出る時に持っていけたらきっとよき人生になることでしょう😄

 

人生の終りに他者を想う尊さとはつまり、人生のただ中に他者を想う尊さなのです。それまで養った霊性が最後に現れただけですから。日々の暮らしに全てがあります。