ほわほわ神社生活

ほわほわ神社生活

神社が暮らしの中にあるおっさんのちょっとだけ変わった日常です。主に岡山県広島県の神社巡りをしています。神社巡りの記録や神社のことで思うことを書いています。

MENU

おたぬきさま、ありがとう😊🙏

私の住むあたりにはたぬき(祭神あるいは眷属)の信仰はありません。備中国には魔法様と呼ばれて信仰をあつめたキュウモウ狸を祀る神社が数社ありますが、それ以外は聞いたことがありません。

#この記事、後半はいつものアレです。

 

a-wi.hatenablog.com

稲荷だと独立した神社がぽつぽつあって、境内社として祀られている稲荷はかなりの数になりそうです。

 

稲荷のお狐様🦊ならどんな感じか感覚的に理解しているのです。それがおたぬきさまとなるとさっぱり😅

 

ネットでたまたま知った人がいて少しおせっかいをと思いました。でもどう接触しても不審者です、私は。結局、明確にお断りされなかったので勝手にすることにしました。

 

問題の場所は讃岐高松。やむなく自宅よりお願いをしました。

 

以前書いたことがあるかもしれませんが、いくらご縁があっても定まった手続きというものがあります。神社でお願いしないと本来はダメなのだそうです。神と人の交流の場として整備された場所で(緊急事態でない限り利用して)行うべきであるとのこと。

 

それでも普段からお詣りしている神社なら自宅からの遥拝の形になるでしょう。今回は面識がないのにアポなし突撃です。門前払いでも仕方ないのです。でも、おたぬきさまはイレギュラーな形でも(今回は)OKしてくださったので後はお任せでした。最低限の礼儀として、必ずお礼参りをすることはお伝えしました。

#イレギュラーでも大丈夫だった理由があります。だけどそれは書くことができないのです。

 

半年後、お願いが叶うかと思えたのですが、その時は形にはなりませんでした😓

 

私の心も”やっぱりダメなんだろうか”に傾いたり、”いや引き受けてくれたのだからいつか必ず結果は出る”の間で揺れ動きました。良く知らないことから、ずいぶん失礼なことも思った覚えがありますm(__)m

 

年が明けてお願いの一部が叶った時に詳細を伺いました。私は三つとお願いしました。残りは二つ。遠くない日、必ず叶うと信じて待ちました。そしてお願いは完全に叶えられました😂

おたぬきさま、ありがとう!😂

いつもお世話になっている神様もありがとうございます🙇‍♂️

 

他者に期待させて結果がダメだと、それは殴ることに等しいです。腹を切る(比喩です)しかないのかと思った日もありましたが、リミットまでの半分の時間でめでたしめでたし。

 

おたぬきさまの社は高松市三伏大明神(しょうふくさん)です。江戸時代は玉藻城に住んでいたのはだてではないですね☺️

 

いつもは神様への手土産はカップ酒です。今回はさすがにそうはいかないでしょう。四合瓶純米酒くらいは用意しないとと考えています🥰

 

本人がしなければならなくてもできない時もあります。その時に他者が代わりに願うのは神様もご眷属様も拒否はされません。

 

神社でお願いはありませんという人はいます。我欲は放出していないのは確かに良い事です。もっと良いのは損得抜きに己の力を他者のために使う願いです。お願いはありませんには、己は幸福だからそれで充分の思いがどこかにあるのです。

 

人が神様やご眷属様に対してできることは、人と人が作る世にわずかでも良き力を放つことです。

 

自分を満たしてから他者の助けをと多くの人が主張されています。それに対しては一定の尊重をしつつ、私は満たす器の大きさは決まっていないことを理由に賛同はしません。

 

湯呑レベルの我のために力の大半が他者への力となるものと、バケツやドラム缶レベルでどれだけ満たされていても溢れさせないのとではかなりの違いです。

#心あるいは霊的な満たしのことですから、条件を付けた時点で大事なことから遠ざかっていると感じます。もちろん、己が空になっているのにするのはよくないです。ガス欠車は困りますよね😅

 

極端な話、まだ不完全だから神や仏の領域に達したら助けますなら、いつになってもこの世はむさぼりの世界から一ミリも変わりません。

 

どんな状態であってもそれに応じた努めがあると私は思います😌

 

人、これは家族や友人のことではなく何の縁があるのかわからない他人のこと、こうした人の助けを願ってください。想いの循環の中に神も人もそれ以外の存在も次元を越えてひとつになる(行為を通して改めて知る)喜びは一度味わうとこの世だけの喜びを霞ませていきます。

 

喜びを求めることは否定はされていません。その人によって違うのも否定はされていません。でも、自分で自分の喜びがわかっていない人もいる。何が自分が真に求めるものなのか、神仏が願っていることなのか、自分で試して解き明かすのは人の喜び。

 

その過程での喜びの一例でした。