このところ目に見えない存在から叱られてばかりです。
久しぶりにおみくじ(一か月お詣りできなかったので)をひきました。ひく時に神社の神様に、今の私を見て何か言いたいことがありましたらこのおみくじでお願いしますといった感じに祈っておみくじをかき回して一枚とりました。実はあまりよい答えは期待していませんでした。
出たのは、より良い世を作る神のお役目しっかりやれやというような答えでした。このところ体に長く痛みが続いていて気持ちもそれにひきずられているから、やりますのでご助力をと神々にお願いしたことを先延ばしに先延ばし。予想通りの結果。
#歳で関節が痛むだけです。
まだ書いていない神社では、もう二度と来たくない(体力的に)とぼやきながらお詣り。拝殿に置かれたノートに興味があって開きました。ぱっと目に飛び込んできたのは50回近くお詣りしている方の喜びにあふれた文章でした。さすがに恥ずかしくてぱたりと閉じて元に戻しました。
ここまでならまだよかったのです。その帰りにお参り時に約束していたことを見事に忘れてすっぽかし。我ながら酷いもんだと思います。自分からお願いしてやらないのは最もやってはならないことです。人間相手でもそうですが高次元はさらにダメです。立場ももちろん違いますが叶える時にはとりかかられています。どういうことかわかるかと。
おみくじに書かれていた世をよりよくするということは生きている皆に責任があります。それを果たすにはどうすればいいのか。
明確に分かる極少数の人は細かく指導が入ります。あとはやるかやらないかです。ある意味幸せです。その場合はそうできるように日程面や金銭面で調整されますから上手くいくことでしょう。
ある程度までわかるがはっきりしていない人は困ります。これでいいのかと思いながらでは全力はどうしても出せないのですね。そうして中途半端では成果もそれなりです。あちらから見て大丈夫だからこそ暗示で指導されるのです。こちらとのギャップは簡単にうまるものではありません。
おみくじもノートのメッセージも単に気のせいですむことです。そこに何らかの意味を見出して生きるのが信仰というものだろうと思います。違法行為でもなく、誰にも迷惑もかけていませんから純粋に個人の心の問題です。
幸福とは物欲を満たすのではないのです。喜び、幸福はお互いに満たしあう時に一人のものより大きなものになります。何かわからぬ期待に応えようとすることは悪い事ではないのですが、その間幸福は大きなものにはなりません。自分のやりたいことと自分ができる(能力的に)ことが一致した時に大きくなっていきます。被守護者がそうして精一杯生きて喜びに満ちた時には守護霊も満たされるのです。そしてそれは世をよくしたい神の願いに答えることにもなります。
そのつもりはなかったが褒められたという人生は理想のひとつだろうと思います。