ほわほわ神社生活

ほわほわ神社生活

神社が暮らしの中にあるおっさんのちょっとだけ変わった日常です。主に岡山県広島県の神社巡りをしています。神社巡りの記録や神社のことで思うことを書いています。

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行為に顕れた心

神社境内でよくこっそりゴミを一まとめにして片づけやすくして帰っています。これ自体は神々ご眷属様には喜ばれる行為です。

 

掃除に励む姿を他者に見せることは大切だと書きました。交通マナーに見られるように人は簡単に悪い方へ流されます。正確には自ら進んで向かいます。その反対はとても難しいことです。長い時間をかけて一人でも変わる人が出ればいいほうです。

 

神社は清浄であるべき場所なのだから掃除に違和感はないはずです。それでも心を変える人は少ないのですから、神域でない場所ではさらに困難なものになるのは当然でしょう。

 

その辺を散歩する時にゴミ袋やビニール手袋等の掃除道具を用意してゴミを拾っている人の姿をまれに目にします。溝などがポイ捨てでつまるからやむなくという場合もあるでしょう。そうでなく単にゴミだから拾うだけくらいに軽い気持ちで、歩くのと同じような感覚でそうしている人は立派だと思います。

 

神社の掃除と違って、神様の前だからという下心はまるでないのは実はとんでもないことですから。己中心の心ではなく自他一体の心がそこにあります。これは、この次元の標準的な心ではないのです。

#神社の掃除をする人によくない心があると書きたいのではありません。神様へと向かう心の素晴らしさは認めたうえで、ある意味それを越えた心をこの記事では強調したいだけです。

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世界と己が一体となって生きるのが神々の望みなわけで、他者から奪うことを喜ぶのもゴミを捨てて自然を壊すのも(本当は)そこから外れていく方向の生き方です。

 

現代社会(この日本の社会)はそうでない在り方を許さない社会です。私個人の感覚ではこの世は人の心によって変わることはおそらくないです。もし強制的に変わるならば、その後に今はやりにくい生き方が自然にできるようなものになることでしょう。

 

ただし、いくら良い土地でも種がなければ何も実らないように、たくさんの種はそうなる前から必要になります。種はこの世に増えたのでしょうか? 種とまではいかなくても花はあちらこちらに静かに咲いていると私は思います。途中で枯れなければ……。

 

#この記事は諸事情でかなりあやふやな書き方になっています。本来、言葉(思考)でない領域のことです。

 

#女性の方がやや多いような気がしますが、普段から自分の一挙手一投足をいちいち実況する人がいますよね? それをやめてモノに接するのです。例えば、神社だと社殿の細かい部分を見て考えず、全体をぼんやりした意識で眺めた時言葉でなく胸の内にどんな動きがあるのか感じます。慣れると次第に言葉でない意識でとらえられるようになるかもしれません。神社巡り記事ではそれでは文章にならないので言葉の形に変換しますがかなり別物になってしまいます。

 

#こうした感覚を磨くのに神社は優れているのでオススメしています。

 

追記(補足説明)

思考と自我は目先のことに流される(短期的な利益を追う)ように成長過程でなってしまっています。ほんの少しでも己の内のもっと中心にある部分を外の世界に直接触れさせてやると少しですが成長が促されるのです。たとえ幼い魂であっても、神々と共通する部分はあります。それを育てるのが人生です。

 

昭和の頃は道沿いの山や川には空き缶が散乱していたことを平成生まれの人は知らないと思います。ポイ捨て禁止の立て看板やCMまでありました。私は、これらが減ったのはゴミ拾いの活動を見て投げ捨てにくくなったことが一因だと感じます。心も大事ですが行いも大事です。何か小さなことでも変わる可能性は残されていると信じたいです。