ほわほわ神社生活

ほわほわ神社生活

神社が暮らしの中にあるおっさんのちょっとだけ変わった日常です。主に岡山県広島県の神社巡りをしています。神社巡りの記録や神社のことで思うことを書いています。

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ある架空の国のお話

昔々、あるところに水の豊かな国があったそうです。ある日、空のかなたの超先進超大国から国交樹立のための使者がやってきた結果、両国は国交を結ぶことになったのでした。

 

その超先進国に水の国の者は住めないかわりに、あちらから大使がやってきたのです。超先進国からの使者がこちらに生まれる時に誰の目にも明らかであるようにと、大使の一族を水の国の姫と共に作りました。それからの大使は水の国で世襲大使家として長く人々の指導にあたったのでした。

長い時が流れ、水の国では世襲大使家不遇の時代を迎え、武力を持つ家が国をひきいるようになっていました。

 

また長い時が過ぎ、水の国始まって以来の国難は海のかなたからやってきたのでした。この国難が治まった時、大使館にいる超先進国大使が再び人々の前に姿を現したのです。

 

超先進大国と水の国のことを多くの国民が知るようになりました。

 

そして、大きな戦いの後、水の国はまた少し違う姿へと変わりました。

 

大使の家はまだ水の国に存在します。ですが、人々の想いは様々です。

 

大使はいらんと声を上げる者、誰でもいいよと声を上げる者等それまでとは異なる意見がたくさん見られるようになりました。

 

大使はいらないということは超国家との国交断絶を意味しますが彼らはその意味を知りません。

 

誰でもいいよということは大使でないものがその椅子に座っていいということで、協力関係は終了します。

 

とても古い古い約束なので、多くの民は忘れさって久しいのです。

 

もし大使が去ったなら、水の国はどうなるのでしょうか?

 

それは誰にもわかりません。

 

#神社四社にお詣りするも記事書くのが大変なので後回し😅

皆で一緒にはそんなに悪い事ですか?

この記事はあくまでも心の問題についてです。

 

この世は日常(あの世)と違う非日常の不便を楽しもうな場所だから、何でも思い通りにはなりませんよ? それはどんな魂でも同じ。己の好きな事ばかりできるわけではないですけど、それ故に楽しいのですが……。

 

皆で一緒にすることが己に不都合故に悪とみなしているなら、間違いとは言えないが正しくもないです。己だけがこの世に存在するのではない理由を理解すれば、他者の主張(というより存在そのもの)も尊重しながら(無条件でいいなりではないです)日々生きれます。他者と自己は同等とわかれば自身で自身を尊重してコントロールできるので、キツイことが起っても今日と明日を生きるのはそこまで難しい事ではないです。

 

己に不快だと視界に入れねば楽でしょう、今は。その時その時にしか味わえないものがこの世にはたくさんあります。それは次はいつ味わえるかわかりませんし、次をするかどうかは私が決めるというのは、ほぼ間違いです。

 

もっとも、心身が破壊されるのをわざと味わうこともありませんから、そうした場合には楽な所に身を置くのでいいと思います。いや、実は最初からそれを味わうことになっているのだというのなら、嫌だと思って回避しても回避しても最後は必ずそうなりますから、この世で今感じる意識に従って楽な方へでかまわないでしょう。

 

と、ここで終われる話でもないです、いろいろと。こうした場は二度とないでしょうから、こちらで出会った様々な存在の中に身を置くのは楽しめませんか? 

 

私自身は本来、誰かとご飯を食べるようなことはありません。いろいろな立場の者で一緒に酒を飲むこともありません。限られた者としか顔も合わせません(あちらは思念でやりとりするので一堂に会すること自体がほぼないです)。

 

この世ではそうしたことがみな味わえます。それぞれ思っただけではそうなりませんからそれなりに体を動かす手間はかかります。でも、それ自体がここにしかないので貴重な体験です。私個人は、そもそも本来は女なので、こちらで短期間やれるおっさん自体楽しいことです。

 

私にも私の人生が当然あって、それは他の人が代われるものではないから、終わっていい時まではせねばなりません。時間制の遊びだから終了時間になったら場所を次の人へ譲って終わるだけ。その時には、もう時間か! という感じだと思います。

 

自由というのは、嫌な物事を避けることとイコールではないです。それはこの世限定かな。どんな物事も己の意思でそれを自在に受けとめられるのが自由です。

 

本来は他者あるいは世界は”しんどい発生装置”ではないのです。もっと別の見方を探らないといつまでも高い堤の前に溜まっている魚の群れの一匹です。横の魚道に気づいて上に泳いでいけたらそこは己を流すことのない穏やかな世界です。

 

そうなると、皆ですることがしんどかろうが己一人が楽しめることだろうが等しく過去へ消えていきます。

大勢の中で自分と異なる価値観の人がいて己には不快でも体験としては快、独りの楽しみも体験としては快として、来たものは自己で堰き止める事なく流していけることが自由。どちらかしかできないのはまだまだ足りないものがあるということです。他者との関りである自分の人生に起こることから引いていくのではなく、足していく”和”を築くことが大事なのです。

 

人と違うのは良い事でも悪い事でもない。ただそうだというだけ。そうしたことに拘りがある限り、流れずまとわりつく渦の中で今回の人生ゲームは時間切れになることでしょう。

 

今の自分でいいとよく言われますね。あれはただの前提です。スタート地点からどうするかは個人に選択権があります。そこから動かなくても動いてもご自由にです。

 

追記

やってみたいことを(他者を突き飛ばしたり踏みつけたりせずに)やってみるのがいい。

自由は好き勝手とは違う。

他者は邪魔ものではない。同じ時を生きている仲間。

自分の現状をきちんと把握しよう(把握するだけで、得意になったり卑下しない)。

執着になります↑

 

こんな感じでしょうか。春からのことで全て空しいですが。

互いの想いにより生まれる存在の不思議

昔々まだこの身体が若かった頃、高藤総一郎という人の本を読んで仙道(気功)修行もどきをしていました。今は一冊しか手元にないので記憶頼りですが、たしかイメージで自身の十二神将を作って目的別に使役するといったようなテクニックが紹介されていて、私も手当担当(当時はヒーリングなる用語はまだ一般的でない時代でした)の女性を一人作り出しました。

 

現場作業で足の疲れが酷く、就寝時に彼女に足をマッサージしてもらうのです。もちろん、自分で想像するのですが、これが日増しに本当にそうした存在がしてくれているような感覚になってくるのです。ほとんど意識して行わなくても足には見えない手が触れている感覚があるのです。それを感じているうちにいつしか眠っているのでした。朝起きた時の疲れも実際に違っていました。

#足を意識していることで自律神経に働きかけ、緊張が解けて血流がうんぬんが理由ではこの記事ここで終わりになるのでそうした考えは無視します😤

 

仕事が変わり、足の疲労とさよならした私はいつしか彼女のことはすっかり忘れていました。時々思いだしても、どう接すればいいのかわからなかったのです。今はもうわかりません。生みの親である昔の私の内に還ったのならいいなと願うばかりです😔

 

後年、ネットでタルパというものを知りました。高藤氏のテクニックもこれと同じものだったのかもしれません。

 

これはあくまでも自身の内で生み出して外に置いたエネルギーの塊です。では、これが複数人だとどうなるか。例えばある絵を見て多数がこれはこういうものだと認識したら? ある場にそれは存在するようになります。それを人が神的存在とみなしていたら、それは神になるのです。より正確には神を演じるための器です。

自然発生的な民間信仰で神と崇められる場合、器となるイメージとそれが備える力がないと成立しません。備える力には二つあります。一つは人々が少しずつ提供した自分達の集合エネルギーで、もう一つは元々力ある存在がそのイメージの器に与える場合です。

 

別の存在が神である場合、人々が信じるものを無下に否定せず自身が代役を演じることで新たな信仰対象である神社の神を作り出します。

 

神社で御祭神と全く異なる御神徳を持つ岩、樹などがあることがわりとあります。こうしたものは元々持っているエネルギーに人のエネルギー(念)がプラスされて増幅されたものか、そこの御祭神が放つエネルギーを人々が岩や樹の持つ御神徳だと勘違いしているものかです。

 

人々がすがり信じる気持ちに応えてくださったことを人が誤解しているが、それをいちいち正すことはされないのですね。姿を見せない以上、起こりうることで、許容範囲だと。

 

岩や樹の御神徳と言うと、それは誰かが言い始めたことを大勢が信じたから、つまり分母が大きいから中にはその通りの結果になっただけだろうと思う方もおられるでしょう。そうした面は否定しません😌 しかし、願えばある程度の確率でそうなるくらいでは長い間保たれる信仰にはなりにくいのです。信じられないようなことが定期的に起らないと人の気持ちはすぐに離れて行きますから。

 

昔は人と神の協力関係で成り立った特殊な神は現代ではその姿を少々変えました。

 

人間のイメージはかつてないほど容易に他者と共有できるようになりました。大勢の人が二次元や三次元の萌えキャラを皆で共有して楽しんでいるでしょう。

 

寺社にイメージキャラクターがいる場合には、そうしたキャラの役割を演じるご眷属が今は存在しているという事実。こんなことを書くとますます読者の皆さんに呆れられそうですが……😅

 

何かの姿に見える岩もキャラ絵も人との接点という意味では同じで、過去も現在もそうした仕組みは有効です。あまりにもふざけたものでない限りという条件はつきますが。ある程度の敬意がそこにあれば大丈夫です。

 

まあ、あまり難しく考えず〇〇さまと手を合わせていればそれでいいのです、きっと😉

 

人が良いイメージを持てばそれに対する反応があります。これは逆に考えると少々恐ろしい話でもあります。今回はそこには触れないでおきます。いつもネガティブなエネルギーをむやみに出すなと書いているのには無数の理由がありますがそのひとつでもあります。

 

追記

今回書いたことは様々なケースでよくあることですが、もちろんこの限りではありません。

おさるさんはいずこ?

うちには神棚があるよという方は何かの像を置いてあるかと思います。伊勢のお神札を納めた神棚には狛犬のことが多いはず。稲荷の神棚や祠には白狐像がつきものです🙂 以前お狐様の欲しい物という記事で書いたように、依り代になる上に自身の姿を示すものとして利用できるようなのです。

 

巳様🐍だと瀬戸内沿岸では道通信仰で像が要ります。全国的だと弁天様の使いとしての白蛇の像がいるでしょうか。リアル🐍からデフォルメまで結構いろいろあります。

 

神社には本社(総本宮)と分社がありますよね。日吉とか日枝とかの名の神社は滋賀の日吉大社の分社です。

で、この神社のご眷属(神使)はおさるさん(神猿=まさる)なのは神社好きな方だとご存じかと。

 

ここでようやくタイトルに😅 神具店におさるの像が無いのです!

 

私の探し方が悪いだけかもしれませんが、少なくとも稲荷の白狐像みたいにサイズ色とも豊富に見つかるようなものではなかったです。

 

日吉大社の分社は4000近いというのに、神棚用おさるさんはなぜないのかなあ。神棚用途で見つからないなら縁起物ではどうだと探したらいくらか見つかりました😆 リアル日本猿かデフォルメおさるかで選ぶ形になりますね。

 

本当は日吉大社にお詣りすれば神猿像はいろいろと手に入るのです。が、滋賀までは遠くてちょっと無理なのです。困りました。お神札やお守りは郵送授与していただけるようなのですが神猿像はわかりませんでした。

授与品 | 日吉大社

分社にもあれば助かるので探している最中です😫 おさるさん出て来てくれ。

 

おしまい

艮神社(広島県福山市北吉津町1丁目5)

艮神社

JR福山駅北側には幾つか大きな神社があります。福山駅北口を出て石垣に沿う南北の道を歩いて数分で左側に三蔵稲荷。三蔵稲荷鳥居前の道を進んですぐにある別の鳥居をくぐってしばらく歩いた右の山には備後護国神社。三蔵稲荷方向へ曲がらず歩いてすぐの東西の通りを渡って数分進んだ辺りが福山八幡宮。福山八幡宮の右手(山の裏側)にあるのがこの艮神社です。

 

駐車場に困るのではとずっと思い込んでいたから、福山八幡宮の隣なのに訪れたことがありませんでした。たまたまネットで駐車場を目にし、これは行かない理由がないと出かけたのでした。

 

目次

 

【御祭神】

 

須佐之男命 伊邪那岐命

 

【艮神社への道】

JR福山駅北口から北へ数百メートルの所にあるのですが、神社周辺は片側一車線ではない道です。これは福山駅から300メートルくらい北側を東西に走る通りで、交差点角の塀に神社二社への案内板があります。

センターラインの無い道も道幅自体はあります。ただし、所々一台やっとになります。昔からの住宅地ですからこれは仕方ありません。あらかじめ地図を見てできるだけ太い道を選んでストリートビューでシミュレーションした方がいいと思います。ナビが細い道ばかりを指示するかもしれませんから。下の写真は西側(福山八幡宮前から来た場合)からのものです。隣に未舗装駐車場がありますが、それは神社と無関係の月極駐車場です。

【車椅子使用の方のための情報】

駐車場からだと緩い坂になっている参道を80メートルくらい進んで左に曲がって石段横のきつい急坂を上がることになります。でもこれはあくまで自動車参道です。

上から車が降りて来ると危険だからこれはダメだと思います。車で参道を進んでこの急坂を注意して随身門横に上がると、お祓いを受ける車とその他の車を止める場所についての案内看板があります。

  

案内看板に従って社殿左横を通り、奥に駐車してそこから車椅子でお参りする方が安全です。

事前に車椅子を使っていることを社務所に電話で伝えて、あとは指示に従えばいいと思います。神職常駐の神社ですから日中いつかけても神社の方が出られるでしょう。

 

拝殿や境内社、そして社務所も段があります。お参りはその手前からになりますね。社務所には車椅子を押してくれる人の助けで段を乗り越えればなんとかなりそうではありますが、公式の授与品ページを見て受けたい物を紙に書いて代わりに受けてもらうなどの方法を使えばお守りやお札を受けられそうです。

 

神社側の都合があるでしょうから、何事も事前の相談が一番スムーズにお参りできるはずです。

 

以上はお詣り時に神職、巫女さんに確認できず私がそう思っただけです。確認して確実なことを書けなかったのはご容赦ください。

 

 

【境内の様子】

艮神社参道入口

艮神社鳥居

随身門(格子内部が表と裏で背中合わせな門はまれに目にします)

随身門向かって右側

随身門向かって左側

艮神社由緒看板

拝殿

社殿横から

本殿背後

艮神社社殿遠景

随身門そばにある宇受売神社(彫られた個人名はわからないようにしました)

宇受売神社由緒看板

本殿裏を進んだ先にある境内社

写真追加:通行止めになっていました

🐗

【おまいりをおえて】

今年一月にテレビ番組で紹介されてから参詣者が急増したみたいですね。だいぶ時間も経ったし、私がお詣りしたのは平日の午後だったからか、ぽつぽつ人がやってくるくらいで落ち着いてお参りできました🙂 でも日曜祝日は十数台止められる駐車場も満車になるのかもしれません。いっぱいなら、福山駅周辺の有料駐車場もそんなに高くないので、そちらにとめて歩いてもいいかと思います。

 

駐車場からの長い参道にはどれだけあるの? と思いながら歩いたほどたくさんの朱の灯篭が並んでいて気持ちがどんどんお詣りモードになっていく良い道でした。私はいろいろやっていたので正確に数えていません。お詣り時にはぜひ数えてみてください。

 

随身門は石段を上がりきった所にあり、抜けるとぱっと開けた境内の向こうに左右対称な社殿群を眺めることになります。遠方からお詣りした人がここで笑顔になれる神社ではないかと思います🙂

#山中の小さな神社はまた別の意味で笑顔になれます。

 

本殿背後の屋根がちょっと面白いです。特別な名称はどうやらないようですが。

 

鳥居をくぐって少し歩くと柔らかいと同時に軽い気に変わりました。境内を歩き回るうちにそれが当たり前になってしまいましたが。

#いつものように、その時個人が感じたことです。他の人は全然違う感じかもしれません。

 

福山駅は新幹線の停車駅です。駅からすぐの場所で複数の社へお詣りができますから、一度新幹線を降りてお詣りの後目的地へというのも悪くないかと思います。ついでに北側が黒い鉄板貼りになった福山城もどうぞ。

鉄壁の防御の構え 福山城天守北側鉄板張り - 福山市ホームページ

地方の中核都市の駅近くで、雰囲気の良い長い参道を持つ、いい神社でした。

神仏習合の稲荷🦊

神仏習合は明治政府の神仏分離政策によって一般的な信仰形態ではなくなりました。田舎では神社境内の一角に石仏が並んでいたり、仏像が納められたお堂を見ることがたまにあります。他には天部の方々を祀る祠を目にすることもあります。これが江戸時代の名残なのか、近年他の場所から諸事情で移されたものなのかは、他所からお詣りする者にはよくわかりません。わかるのは神仏どちらもご先祖様には大事なものだったことだけです。

そんな令和の世に、神仏習合御流神道を今に伝えている宗教施設が兵庫県加東市にあります。

神谷稲荷明神社(こうだにいなりみょうじんしゃ)です。神仏習合について書かれたパンフを読むと、素人にもどういったものなのか概略はわかります。分離の姿しか知らない一般人にはすぐには理解できそうにない習合の姿の一端に触れたような気になれます。

#パンフは授与品をお受けすると同封されています。これが他の神社からの授与品にはないよい香りがします😃

#御流神道と神谷稲荷明神社はそれぞれWikipediaとホトカミのページへのリンク

神谷山持明院/神谷稲荷明神社【公式】 (@jimyoinkodani) / Twitter

 

私には神仏習合について語れる知識はないので、今回は神使(ご眷属)についての記事になります。

 

神戸新聞の記事が読めますのでとりあげられた2回を読んでもらえるとよくわかります。

www.kobe-np.co.jp

www.kobe-np.co.jp

咲希🦊神谷稲荷明神社𓃦⛩𓆙 (@kodaniinari) / Twitter

瑞茅🐍神谷稲荷明神社 (@kodaniinari2) / Twitter

神仏習合の祀る場に興味を持ってもらうためということでは大成功だと思います。もしも女神だとこうなってはいないでしょう。さすがに女神様に友達感覚で話しかけるのはキャラだとしても気がひけるはずです。その点、神使(ご眷属)なら神様ほどは人間から離れていないから、畏れ多い気持ちも少ないでしょうし、この狐と巳の二人は役割と性格もそれぞれ個性があってキャラもたっているのでフォロワーさんは楽しく会話されています。

 

ARで神使二人が現れるのは(肉眼で見えない霊的存在を見るには神通力が不可欠なところ)科学的な神通力? で存在を確認できることで、疑似的ではありますが見えない存在が見える人の暮らしを体験できて面白いなと思います😁 

 

私は前から、ご眷属様のことを忘れないようにしてくださいとお願いしてきました。それは、神と人という関わりだけがあるのではなく、八百万と言われるように無数の神的存在から様々な次元の存在がいてこの世(次元)では我々がいる、そう知ることでその広い世界の中の自分を意識してほしいからです。自分だけでは自己を見るのが少し難しいだろうと感じます。

 

ご眷属という存在を身近なものにしてくれる神谷稲荷明神社はとてもありがたいものです。いつかお詣りしたいとの想いが強くなりました😤

#でも、おっさんがキャラ御朱印帳でお詣りはあかんでしょうな、ははは😅 地獄絵図じゃ。

追記

神使(ご眷属様)を大切にと書いたり、神仏習合について勉強しようと思っていても、おっさんがこれでは説得力がいまひとつ皆無かな😅

システムの無い師匠と兄弟子(姉弟子)との関係

前回記事の補足です。

 

普通に神社にお詣りしておかげをいただいてもそれだけです、だいたいは。三次元存在の意志を無理やり捻じ曲げるようなことは神様はされませんから、関与は二歩も三歩もひいた所からちょっと後押しされるくらいです。とんでもない人間だと特になにもされません。人間からみたら公平な扱いに思えます。

 

特別な関与となるには、こちら(人間)から上の関与を求めないといけません。しかし、神様にお願いしたら誰でも特別扱いではないのです。

なぜなら特別な関係とは、師匠と弟子のようなものなのです。

 

仏の世界ではこの次元に弟子になるシステム=仏教が確立されています。記紀神話の神々の世界では仏の世界のそれと同様のものはありません。神職は? と訊ねられるでしょうが、仲介者は個人的な関係(役割)とは違いますから同じではないのです。

#上のイラストは仏教の卒啄同時(そったくどうじ)です。神道でこうしたイラストを探してもなかなか見つからないと思われます。

 

神社で神々に人生のご指導をお願いし、その代わりに神々の指導には素直に従うことを約束するとその人を見て特別に関与するか神々が決められます。神々ご自身でこの世に自由に干渉すると、この世に人がいる意味が薄れます。ですから、自分達が特別に関わるために代行者を設ける場合には以後細かい指示が与えられることになります。

#神と人とごく個人的なようでいてもっと大きな意味を神の方はもたせます。人の方はそれに気がつかないことが多いでしょう。知らず識らず役目をおっていたということです。

 

私も特別扱いをとお願いしてもその人の能力や意識で適正を判断されるのは何故かと言うと、”何故か私の人生が上手くいかないのを一発逆転してすごい人生に"みたいなエゴは問題外だからです🙅

自分達神々を自身の道具にしようと思う者に従う神はおりません。

 

前世の縁で今生でも継続することもあるようですがここは詳しく知りません。

 

指導を受けてやっていくのですから、師匠と弟子のような関係になるのです。だから多数ではありえないのです。同じ人間でも師が弟子を導くのは大変でしょう。神の弟子だともっと困難なのは想像できるかと。

 

弟子の人間の方は師匠の考えを把握するのは大変です。指導する神々はそれをご存じですが、知っているから楽ということもないようです。なにしろ、人間は基本、無知で怠け者で傲慢ですから😅

 

神によって、優しくこんこんと説く方もおられれば、厳しくつき放すような方もおられます。自身の弟子には、神々は無機質な顔とは違う、高次元とはいえ人間らしい姿を見せてくれます。自身の師匠がどんな方か弟子はつかまねばなりません。素晴らしい師に教えていただける喜びと師の期待に応えなければという重圧、少し違う喜怒哀楽の人生の始まりです。

 

こうなると、この次元で参考になるもの、頼れるものがもう本当に少なくなります。だから安易に神との特別な関係を望んではいけないのです。望んで結んだ以上は簡単に無しにはできません。どうしても駄目な時には解消もできるかもしれないです。でもそれは、神などいないと言う人よりも神と離れる人生になります。それを思うとぞっとします。

 

さて、神社で神々と師弟関係になったなら、同時に関係を結ぶ存在がいます。ご眷属様(神使)です。

 

ご眷属様はそこの神々に憧れ、敬意を持って神社にやってきます。ここは人間とも同じですね。弟子入り順では先輩ですから兄弟子(姉弟子)になります。当然、ご眷属様からもあれこれ(主に態度の面で)指導されます。むしろ、神様から直接よりはご眷属様からの方がはるかに多いかもしれません。〇〇道といったものでは創始者(何代目)ではなく普段は師範代から学ぶようなイメージでよいかもしれません。

 

このブログの初めの頃にこんな記事を書いています。もう二年前ですか。

 

a-wi.hatenablog.com

ご眷属様を神様より格下と軽くみてはいけません。こちらは初対面のつもりでもそうでないかもしれないし、初対面ならじっと見られています。あまり緊張してペコペコしなくてもいいですが、敬意の欠片くらいは持っていてください。神様にお会いしたくてやってきたとしてもです。

 

存在が違いますから、職場や部活の先輩のような関係とは、そこの神社によって違うと思いますが自身はあくまで新入りです。

 

神様ともご眷属様とも関係はその神社ごとに違うのですから、誰でもその通りにすれば大丈夫なひとつのシステムなど構築できるはずもないのです。逆に、それが神道の最大のメリットだと私には思えます。

 

ここまで書いていたことはある人には似たようなケースになり、ある人には全然違うケースだと思います。あちらのことで知っていることはあくまでも自身がそう知っていることです。他者が違うからという理由での否定はあまり意味がないです。

 

神社にお詣りして神様に何か思うことを話して気持ちを新たにして今日と明日を生きる。これくらいが一番楽しく、あちらの次元とこの次元とのバランスよく生きられるのかもと思います。でも神々と関係が深いのは過去からの全てが結実した故なので、なるようになってみるのもまた人生でしょう。

 

こんな説明で前記事よりもわかりやすくなったのなら嬉しいです🙂 補足の方が数倍はある😅

神々から答えを教えてもらえない方が幸せ(かも)

神々は個人を間接的に導いてはくださるのですが、直接答えを教えてくださることはないです。記憶も能力もほぼ封じられた状態にすることで学びが成立するためです。その個人個人の機会は神でも奪うことはされないです。ヒントを与えたのだから、後は自分で考えろです。

 

しかし、なんにでも例外はあるもので、レアケースでは答えを教えてくださることもあります。するとどうなるか。自ら答えを出さないで済むのですから、その替わりを問われることになります。

 

知ったのに何もしないのか? です。

 

それに言い訳で答えるとそれまでです。神々はすっと下がられます。いわゆる、”神に見放された状態”になります。なんでもお見通しですから、本人が心を入れ替えるまでは続きます。

 

考えても答えが出ないならそこまでで保留して、分かる範囲で真摯に人生に向き合って日々生きていく方がいいかもしれませんね。見守ってくださっていると感じて生きる方が楽です、たぶん。

性急に答えを他者に求めるのはあまり良くない結果を招く気がします。答えを求める過程でバランスよく成長しないとです。

 

ヒントの補足です。ヒントも無数になるとほぼ答えです。たくさんいただいたならこちらも返さないとダメです。

 

神社好きな人の中には既に答えをもらっている人もいるように思います。ようこそ、終点までノンストップの列車へ! 結局、なる人はなるようになるのです😁

空幣稲荷大明神(岡山県浅口市鴨方町六条院中)

時々通る山陽道鴨方インターから国道2号へ出るルートに稲荷神社があるのを知って行ってみました。毎度のことですが、じっくり調べあげてから行かないものでちょっと困ったのでした(お詣りは無事できました)。

 

目次

 

 

【御祭神】

 

稲荷大明神

 

【空幣稲荷大明神への道】

北からだと山陽道鴨方インター前の岡山県道155号を南下します。緩やかに右にカーブしてからまっすぐ進むと信号のある大きな交差点があります。そのまま直進すると数百メートルで丘を上がって下ります。下りきると細い川に出ますので、突き当ったら右折して道なりに500メートルくらい進みます。

こんな案内標識のあるT字路の標識の裏側? 山の麓に赤い鳥居(黄丸印)があります。場所はわかりやすいです。ナビの案内で確認できても(抜け道なのか意外なほど交通量があります)後続車がいるために通り過ぎないといけないかもしれません。



神社前には駐車場はないのでそのまま100メートル少々進むとまたT字路があるので左折すると二階建駐車場が見えます。ここに駐車します。最初、付近の調査が足りずに川沿いの道を行ったり来たりして諦めようかと思いました😅

元に戻るのに川沿いの道をかなり向こうまで進んでから左折するとJR鴨方駅があってその隣が駐車場でした。こちらは平日のお詣りでは空きがたっぷりありました。料金については写真をご覧ください。

国道2号からだと大型店舗が集まっている付近、六条院中交差点を北へ向かうとJR山陽本線の踏切があって、それを越えると真正面突き当りの標識のさらに先が鳥居です。下のは神社前の道から国道2号を見た写真です。

どのルート(ナビの案内)でも鴨方駅を目指せば間違いないと思います🙂

 

車以外、JR山陽本線でのお詣りも楽な神社ですね。

 

【車椅子使用の方のための情報】

一の鳥居からは石とコンクリの参道を80メートルくらい? 上がらないと社殿に着きません。残念ですがこちらの神社へのお詣りは難しそうです。

 

 

 

【境内の様子】

空幣稲荷一の鳥居

二の鳥居(一の鳥居をくぐってすぐ左)

三の鳥居

社殿左側の磐座(一番大きな岩で5から6メートルありそうでした)

社殿から三の鳥居横まで続く巨岩

磐座にある祠のひとつ

空幣稲荷社殿(奥の壁はなく、岩になっています)

社殿内部(あえて小さくしてあります)

社殿右側にも岩

二の鳥居と三の鳥居間にある井戸? 泉?

 

【おまいりをおえて】

磐座の写真を見てこれは行ってみたいと思ったのですが他の方が駐車場について書かれていないはず。神社前はセンターラインの無い生活道路のために20分くらいウロウロしました。市営駐車場、いつか利用する時に備えてどんな駅かちょっと見ておこうと思ったので一石二鳥でした😁

 

一の鳥居を過ぎると参道に多くの木の枝と落ち葉が😖 でも色は青のものが結構あります。先日の台風14号で散乱したようです。マムシがいないかビクビクしながら石の上を慎重に歩いて登ります。途中からは綺麗だから社殿までずっと緊張しないですみました。拝殿でも思ったのですが、こちらの稲荷神社はよく清掃されていました。参道(石やコンクリ部分)には古い落ち葉が堆積したような跡はなく、拝殿内も埃まみれということもなく榊や花が綺麗でした。きちんとお世話をしている方がおられるようです。床が光っているのが上に貼った写真からわかると思います。

 

マムシマムシ……と考えていたのと久しぶりのお詣りで鳥居内外の変化の確認をすっかり忘れていました😅 ですので今回は無しです。

 

三の鳥居をくぐってすぐの磐座(巨岩)からは細かく震えるような気ではなく、もう少し大きな振幅の放射がありました。

#あくまでその時に個人が感じたことで、違う日にお詣りしたら違うかもしれません。また、他の方は全く違う感想かもしれません。

 

社殿内に掲げられていたご由緒によると、吉備真備公がこの辺りの海で船が何故か止まってしまうことに悩まされ、たまたま遭難船を目にしたことから海のそばの断崖上に稲荷大明神を祀って祈ったところ、金幣空に輝きわたり御霊験をあらわされたとのことです。以来、船が止まることがなくなったので里の人が空幣稲荷大明神をいつき祀ったことが続いて書かれていました。

 

穏やかな瀬戸の海ですがいろいろ不思議なことが他の神社にも伝えられています。

今は木々が茂っていて見晴らしはあまりよくないです。この辺りまで海だったとは信じがたいですが、ご由緒からいろいろ想像してみるのも神社巡りの楽しさです😃

 

参道は息があがるほどきつくはなく、磐座信仰を感じられる綺麗ないい神社でした。

注連縄のような、生活から離れたものはすぐにはできないですね。

昨年、縄をなうことはかろうじてできるようになりました。といっても、稲藁の長さだけでした。祠用なら二尺もあればいいから、太い束でなえばなんとかなるのかもしれません。

 

a-wi.hatenablog.com

が、神社用となると長さが必要になります。六尺とか八尺くらいはいるのかな? となると継ぎ足しながらなうことができないとおしまいです😥

 

今年は一応継ぎ足すことができて、長さはちょうど六尺くらい。長さはクリアしました😆 でも急に細くなってしまいました😫 適切な藁を適切に混ぜて太さもコントロールしないとダメなのですね。これは練習で感覚を掴まねばならないです。それができたら注連柱でも祠でも元のもののように形は真似られるはず。

 

そこまで自由にできて初めてその神社特有の注連縄を作れるようになります(たぶん)。まだ遠い道のりです。

 

なんでも習い事はある程度までは集中して取り組まないとダメでしょう。ですが藁束がないのですね。今は天日干しをする農家さんは少なくなって稲藁を目にしません。ホームセンターにも必ずあるわけでもないのが困りもの😑 

 

一応、今回の余り物を練習用に使えますから十本くらい? は作れそうではあります。

 

実家が農家で藁束に子供の頃にふれていたり、縄のない方を教えてもらった人は高齢の人だけになってしまったのかな。日常生活で必要でなくなると維持するのは難しいですね。次世代へつなげられるように頑張って体に覚えこませないと😤

 

世の中には、できる人に任せていればいいという考え方があって、それは間違いではないです。でも、皆がそう思うとそれは不可能なことに。結局、奪えば道は行き止まりに、与えれば道は続くと……注連縄作りから無理やりに説教に持ち込むいつもの記事なのでした😅 ふはははは。