ほわほわ神社生活

ほわほわ神社生活

神社が暮らしの中にあるおっさんのちょっとだけ変わった日常です。主に岡山県広島県の神社巡りをしています。神社巡りの記録や神社のことで思うことを書いています。

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境内と境外との空気の違いについて

今まで神社巡り記事内で書いていた気の感じというものはどんなものなのかを一度整理して詳しく解説(個人の主観ですが)してみようと思います。できるだけわかりやすくするかわりに表現しにくい微妙なものや公にはできないものは省きます。

 

目次

 

【境内という特殊空間】

境内は人が手を加えた結果存在するものです。他と違う場でないといけませんから、人の目に見える物理的な結界となる玉垣等で囲われたり、川や崖などの自然の境界を利用しています。

 

この世は三次元ですが、高次元の神々と繋がるための場にするためにできるだけよい状態にしておかないとダメです。

 

清掃に始まり、霊的にも清浄なものとするために人が日々他の土地とは異なる方法で維持している特別な場です。それゆえ、そこには他の場とは明確に異なるものが存在することになります。

 

【外の空気と内に満ちるものの違い】

1.鳥居をくぐってからの変化

一番わかりやすいのが狭い意味での神域(境内)の境である鳥居によって変わる感覚でしょう。境外の空気(肌感覚)は寒暖の差やその流れ(風)として感じてはいてもそれ以外の感覚が生活には不可欠ではないため、特に意識することはないものだと思います。

 

が、それは比較対象が普段ないから感じていないにすぎないことが境内へ入るとわかります。私の感覚では主に二つです。

 

ひとつは鳥居をくぐって神域に入ると一度何かが下がるような(動きが静かになるような)感覚の後、周りの空気がふわふわするようなきめ細かなものへの変化です。これは俗にいう波動が変わるのにこちらが合わせるタイムラグなのではないかと。こうした感覚がはっきりしたら一度鳥居から境外へ出るとすぐにそうした感覚が消えて、周囲が雑なものでできているような気になるのです。

 

ふたつめは、空気が上昇するような軽さを感じて呼吸が楽になる状態です。澄みきった感じで、外のがさつさとは違う別の鋭さがあります。

 

だいたいこうした感じのどちらかにすぐ気がつきます。

 

コンクリ舗装された参道途中にある鳥居の前後一歩で激変した所がありました。日向と日陰ならわかりますがどちらも遮るもののない日向でした。気温に違いなどあるはずのない場で、空気の感じがまるで違う。結界の意味がよくわかる例でした。

 

2.社殿や磐座などから感じる圧力

本殿からは斜めに吹き下ろしてくる圧力があります。全ての神社を同時にお詣りできない以上あくまでその時のものでしかありませんが、周期的に波のようなものが打ち寄せてくる場合や、自分が何かに包み込まれている感覚、身体が急にジーンと痺れだすことなどが、よくある本殿そばでの感じ方になります。

 

例外として、少し離れている時に本殿周囲を白いもやがたなびいていることがあります。これは今まで数社しか経験がありません。同時に非常に強い圧力(圧迫感)を感じます。

 

こうした強い力に満ちている境内では時に、息を吸う度に抵抗のある固まりを飲んでいるような感じになることがあります。もちろん呼吸に力がいるとか息苦しさといったものは全くありません。

 

3.場所による違い

これは住宅地の一角にある神社よりも人の手があまり入っていない山中の神社や海辺の神社で顕著です。

 

砂浜から道路を隔てて玉垣があるような神社では海からの力の影響か、常に何かが入れ替わり続けている感じが強いです。これは打ち寄せる波から想像できるでしょう。また、海から続く空間だけに心理面での解放感につながりやすいはずです。

 

山の神社では土地(土砂)と岩や木々それぞれの放つ力が微妙に違い、それが複雑に混ざり合っているように感じる所が多いです。山の中腹を切り開いて境内地を整備した神社は場所によって変化するのでゆっくり歩いたり立ち止まったりして感じるのに結構な時間がかかります。

 

あくまでも大まかな傾向です。

 

4.御祭神の違い

小社(祠)ではある神一柱のみお祀りしていることがありますが、明治の合祀政策もあって主祭神以下、合祀された相殿で二桁の神々が祀られている神社はよくあります。こうした神社の場合には正直これと言える特徴はわかりません。

 

稲荷とかは神社間に独自ネットワークがあることもあり、気の鋭さ柔らかさに違いはあってもどことなく稲荷の感じがあるものです(とても説明しづらいです)。

 

御祭神が男神中心か女神中心かでもなんとなくの傾向はあるような気もします。実際にはその名前の御祭神はおられないことが多いと思います。それでも、例えばこうしたご神徳の女神様であると人が認識していれば、そこにおられる土地神様だったり、勧請元の本社から来られた別の神様がそうした神であるようにふるまってくださるので、本当は誰と向き合っていたのかは不明でも人が感じるものは同じになるみたいです。みたいですというのは、私には見えないのでそう聞いたからです。

 

上の三つは場そのもののエネルギーでしたが、四番目は存在の違いによる感覚の違いを書きました。

 

【おわりに】

神社境内(神域)はそれぞれ質と量が違うなんらかの力が複雑にからみながら満ちています。それは基本的に誰でも感じられるものだそうです。私は全く感じないという人は少し訓練すれば自分なりの感覚をつかめるのではないかと思いますが、これはいいことばかりではないのです。神社ならまず大丈夫ですがとらえない方がよい力も存在しています。

 

これについてはもう神社巡りとか神社好きとかを越えた話になりますからここまでにしておきたいと思います。

 

神社に着いて、何か気持ちいいなあと感じるくらいが一番よいのかもしれません。あえて自分でどうこうしなくても、神々が自分に対して笑顔になるような生き方をできていたら、良い気に包まれて神社をあとにすることになるでしょう。

 

神社で何かを感じられたら己のことだけ考える意識が変わるきっかけになるかも。そのためなら、鳥居をくぐる時に何かをちょっとだけ期待してもいいような気がします。

 

境内は見えない人にも開かれた別の世界への扉。何かが満ちている不思議な場。