ほわほわ神社生活

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神社が暮らしの中にあるおっさんのちょっとだけ変わった日常です。主に岡山県広島県の神社巡りをしています。神社巡りの記録や神社のことで思うことを書いています。

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前提を後生大事に守る人の停滞

なぜそんな停滞をわざわざ選ぶのだろうと不思議でしかたなかったのです。なぜとりかからないことを誇るのか私には長い間意味不明でした。それが一昨日深夜に入浴中、妹とやりとりしていてようやく理解できたのでした。わかってみれば、あまりにもわかりやすい捉え方の違いでした。前記事の続きになります。

 

目次

 

【現状認識】

私から見ると、今の自分というものは未来へのスタート地点にすぎません。特別な意味のないものです。ところが一部、現状の自分にやたらと執着する人がいます。

 

なぜこの世に来たのにとりかかろうとしないのか不思議でなりませんでした。が、答えは驚くほどシンプルでした。そうした人達は、現状の自分に不満が無いのです。口ではいろいろ言うかもしれませんが、奥には自分大好きで変化などとんでもない自己愛の極みが隠れているのでした。

#あともうひとつ隠れていることは下で書きます。

 

今の自分(ありのままの自分でもいいかも)は確かに過去の集積物です。彼らはそこに価値を見出して、この自分を違う意味で大事にしています。これでは何も変化せず時間の無駄です。

 

この次元に生きる者は誕生時に各自に専用問題集が渡されていると思ってください。

現状をとらえることは問題文を読むことなのですけど、一部の人たちはそれを解答と思っているのだそうです。だから、もう自分はできているとカン違いをしてやめてしまうのだと。

 

確かに、現状は過去の問いに対する答えです。でも、自身の歩みはその宇宙の終りまで続いていくもの。一問解いて答えを出して終わったと思っても、問題用紙をめくると次に、前の答えを利用してこの問いに答えよとの問題が現れるのです。この繰り返しで問題は次第に高度なものとなっていき、己も進んで行くのです。

 

ページをめくらない(己の問題の指摘に耳を塞ぐ)と一問解いて人生終了です。人が一生かけても驚くほど微々たる霊的成長しかしないとされた理由も今は納得です。

#指摘は出来事して現れたり、直接言葉で伝えられることもあります。

 

目の前の物事を歩みのための単なる前提と捉えるのか、これでいい解答と決めるのか。勝手に答えたと思って私はもう答えることができて凄い! とイキリまくっていられたらこの世はバラ色です。

 

【問題への取り組み】

問題をすべて外に求める誤ったプログラムは書き換えないといつまでも同じことの繰り返しで終了です。

 

原因は多岐にわたるため、各自異なるそれを書くことは困難です。共通することが多い部分は、利己愛でしょうか。これを認めた人にはまだ会ったことがありません。なら己を都合よく第一に置くのをやめてちゃんと確認すればよいのですが、霊的怠け者では期待薄と。

#a-wi叱られ日記でも始めたら普段叱られてばかりなのがわかります。この世の存在は皆そうです。受け入れるかどうかです。まあ、私の場合は妹に叱られると大喜びなのでなんというのか😅

 

霊的怠け者、霊的臆病者だと認めたら先があります。怠けて臆病でそれならそうでなくなれば伸びしろがあることになりますから。あとは残された時間との勝負です。

 

#今回の利己愛とは、利他愛を実践している自分が大好きで変わるなど嫌ですという利己愛です。相当たちが悪いものです。

【おわりに】

今の自分と思っている自我は未来永劫使うものではないのですよ。ほどほどにしましょう。私、私って私以外無いのですか?