ほわほわ神社生活

ほわほわ神社生活

神社が暮らしの中にあるおっさんのちょっとだけ変わった日常です。主に岡山県広島県の神社巡りをしています。神社巡りの記録や神社のことで思うことを書いています。

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福頼神社(岡山県小田郡矢掛町横谷1535)

福頼神社|岡山県神社検索|岡山県神社庁

萩原神社のお参りをおえて車に戻ったのはまだ他社をまわれるギリギリの時間。お供えのカップ酒は二本用意していたからもう一社大丈夫。調べてみると近くにこちらの神社がありました。御祭神を調べる間もなく急いでふくより神社へ向かったのでした。

 

#御祭神はどなたか社頭で調べてからお参りしました。

 

目次

 

 

【御祭神】

素戔嗚命大国主命

 

【福頼神社への道】

倉敷方面からだと国道486号を吉備真備公園を過ぎて数百m先の信号を左折、橋を渡って道なりに1キロほどで左側に灯籠や鳥居が見えます。

井原方面からだと矢掛市街を過ぎてしばらく走った辺りの経路案内標識に35号玉島とあるので橋を渡って道なりに進みます。282号との交差点を目指しましょう。通り過ぎたらすぐ左折してあとは真っすぐです。

 

神社は田んぼが広がる南側の静かな場所にありました。

 

鳥居を過ぎてすぐに自動車参道入口があります。石段からは難しい方はお詣り時に電話を入れてみてはどうかと思います。

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社頭付近路肩の広い所があって駐車禁止の標識は見ていませんから車はとめられそうです。

 

#昨日書いた萩原神社は県道282号と県道35号の交差点からは南へ300mちょっとです。こちらの福頼神社は反対方向へ1キロちょっと。非常に近いのでこの交差点からはどちらの神社へもすぐです。

 

 

【境内の様子】

 参道の途中に随身門。拝殿向かって左に籠堂(回り舞台)。手前には大黒様の像。石段は四十段くらいですから楽にお参りできますね。

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拝殿、幣殿と本殿。

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境内社と社殿を一緒に横から。境内社は太老神社、速武神社、光吉神社、吉岡神社他十一社(岡山県神社誌より)。境内社は本殿左右にたくさん並んでいました。

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手水舎と泉?

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【お詣りをすませて】

 拝殿奥(幣殿?)でご神職? や近所の方がお話をされているなか、境内を見て一人楽しみました。

 

萩原神社で感じたほどの軽さはない代わりに、静かな力が充満しているような感じが本殿周囲で特にしました(そんな気がしただけですが)。

 

ずっと昔はお詣りする人も多かったようで、ご眷属も多くおられるみたいです。

 

昔は本殿と境内社の間に松? があったようです。社殿周辺の木は枯れずに長く元気でいてほしいと思いました。

 

雰囲気はとてもよい神社だと思います。備中備後で書いていないものも含めてそれなりに多くの神社にお詣りしましたが、まだまだよい神社はたくさんあるのだなとほわほわして車を走らせ帰宅しました。

萩原神社(岡山県小田郡矢掛町横谷2331)

萩原神社|岡山県神社検索|岡山県神社庁

今日は黄砂か花粉なのか山が白く霞んでいたために自転車必須な神社は避けて車で大丈夫な所を探し、こちらの神社はなんとかなりそうだと出かけてきました。ハギハラなのですね。

 

目次

 

 

【御祭神】

天児屋根命大山祇命

五百筒磐石命、稲倉魂命、素佐之男命、応神天皇菅原道真

 

【萩原神社への道】

東からは国道486号の矢掛町から真備町へ入る手前の矢掛町東三成交差点を南へ曲がって橋を渡り、岡山県道282号を南へ2キロほど走った所にあります。道は広く走りやすいので神社前までは何も問題なく安心して来ることができます。

西からは矢掛の町を通り過ぎて経路案内標識に従って橋を渡り、県道35号を数キロ走って県道282号と交わる交差点を右折すればすぐに右に鳥居が見えます。

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神社は道から北へ数十m細い泥の道を進むと鳥居や石灯籠があります。軽自動車なら鳥居前にギリギリとめられます。がバックで真っすぐ県道へ戻るか、細かく切り返して頭から出ていくかの選択になりますので、ここは自動車参道を上がって境内端に止めさせていただくのがよいように思います。

 

ただ、この道は軽でもあまり余裕がないので幅のある車だと少し緊張するかもしれません。100mもない感じでしたから対向車の心配はないとは思いますが、ここだけ注意してください。同乗者がいれば車を降りて先に見てもらえば安心して走れますね。私はいつもボッチ参詣なのでたまに死にそうになります😅

 

【境内の様子】

鳥居を過ぎて石段を上がると途中に随身門があり、そこから少し上に拝殿。石段は百段くらいです。杉の間の石段がいいです。

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重厚な感じの本殿。

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 桜と社殿を遠くから見る。

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 拝殿前から境内をパノラマで(真っすぐでなく弧を描くように写ります)。

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 境内社は数社ありましたがその一つ若宮神社。屋根に龍がいるから高龗神か弥都波能売神だろうなと思って帰宅後に調べたら弥都波能売神でした。写真を見て気がついたのですが龍の下にある浮き彫りは水を表しているのでしょうか。

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【お詣りをすませて】

石段を上がりきって拝殿前まで来た時だったか、端の方を見てまた社殿に近づいた時だったか忘れましたが、急な風で枯れ葉がたくさん周りに落ちてきました。以後は無風で落ちてくるものはなし。これも歓迎サインということだと思っています。

 

あくまで私の感覚でですがご眷属は多いみたいです。

 

鳥居の内外の気の変化を感じるのをもう一つお詣りした神社含めてすっかり忘れていました。石段を上がった(一般に境内とイメージする)辺りは軽い感じがしました。

 

社殿はさらに一段高い場所にあるのですがこの本殿周囲はさっと温度が下がります(そんな風に感じます)。手入れされた社叢がきちんとあって背後の山の力も加わるとこうした感じになる神社があります。

 

風のために落ちたと思われる杉の枝が少々ありましたが掃除は普段からされている神社のようで綺麗です。ベンチがあれば暫く座ってほわほわしたかったです。爽やかな気に満ちたいい神社だと思いました。

神棚から良い気をいただく

お神札は良い気を放射しているありがたい物でそれ以上でもそれ以下でもないです。お神札の前にいると良い気を浴びることがメリット(こんな言い方はしたくないのですが)です。で、一定期間過ぎると力は無くなります。一年毎に新しい札をとされているのは皆さんご存じかと思います。

 

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神棚に置く宮形と外宮は基本同じ物で大きさと造りが少し違うだけです。ただし、その位置付けは違います。

 

外宮(祠)は勧請して神様にお越しいただいている物なので小さいけれど神社と同じです。宮形は神様に来ていただく代わりに力のある紙や木を置いている物です。どう違うのかと言うと、外宮ではエネルギーを受けることが可能ですが神棚(宮形)は普段はそうではないということです。普段は机の上に立てたお神札と極端な差はないそうです。

 

宮形に収めてお供えをしてお参りをしている神棚は無人の事務所のようなものだそうで、いないが連絡はできるのだと。

 

どうにも元気がない時などに神棚にお参りしてお願いをすると、お神札を通じて届き、向こう側の判断次第ではお神札を通じてエネルギーの放射があるそうです。もっとも、神社に来て直接気を浴びるのとは比較にならない程度のようですが。

 

体調不良などでわざわざ神社へ出かけることが難しい病人などのための処置みたいでした。病んだ者が手を合わせてお神札の神社に悪影響があるのでは? と伺うと、それは気にしなくてよいとのことでした。

 

神棚を作って毎日お世話を続けるのは正直面倒な日もあります。朔日と十五日にはお酒を供えねばならないし、榊の交換もあります。でもこうした良い面もあります。

 

広い家では家の隅々まで神棚の気の効果が及ばないかもしれません。狭い家では一つの神棚の影響は全てに及ぶようです。良い気に包まれるのがどういうことか、できればご自身で確認してください。普段お詣りしてほわほわになる神社があればそこのお神札が自分に合うはずです。在宅時もお詣り時も幸せを感じられるとしたら幸福なことでしょう。

 

#祀ったがすぐ放置したは良くないので無理はしないでください。私は宮形を日本の伝統建築のミニチュアとして眺めていて、楽しくなれるので据えている面もあるので😅

じ、ジオラマ

南宮神社(広島県府中市栗柄町2980)

ここが備後国三宮? になるそうで、吉備津神社と昨日書いた眞宮神社と合わせて備後三大社だそうです。

#昨日の記事にも追記しましたが宮の判断はいろいろと難しいらしく、ここでは大きな神社くらいの意味でとらえてください。

 

ここは神宮寺が神社のすぐ下にあります。神宮寺というよりも、あじさい寺としての方がもしかしたら知られているかもしれません。私も写真をよく撮っていた頃にここにあじさいを撮りに来たことがあります。梅雨には駐車場がいっぱいになりますが今日は私を含めて数台でした。

 

目次

 

【御祭神】

孝霊天皇伊邪那岐神伊邪那美神金山毘古神主祭神とする十四柱の神々

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【南宮神社への道】

国道486号を府中の中心部めざして進み、マクドナルド備後府中店手前の小さな交差点を左折して南に向かいます。すぐに川の土手に上がり、目の前の橋を渡ります。この橋は狭く、橋を通行する側に停止線があります。そこで待たないと曲がって来た車とすれ違いが難しいのでしょう。狭いと言っても普通車二台が通れる幅はあります。広い橋に付け替えが予定されているようで案内板が設置されていました。

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この橋を渡ってしまえばあとは数百メートル道なりに走れば案内板が見えますから曲がれば神宮寺駐車場まですぐです。百メートルくらいは道が狭いのですが、見通しがよいのでお互い譲り合えば大丈夫です。ここに車をとめて少し下の鳥居をくぐって参道を歩いてお詣りしましょう。

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神社の後は神宮寺に寄って帰るのがよいと思います。あじさいの咲く頃は駐車料金を案内の人へ払ったのですが今日は誰も居ない? どうやらその時期だけ有料(数百円)のようです。

【境内の様子】

楽殿? 横から下にある随身門と手水舎を見る。石段は左右にあります。ここから一段上がった所にあるのが本殿です。

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拝殿はなく本殿だけがあります。

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貴船神社をはじめとした境内社。由緒看板によると高龗神ではないのですね。

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由緒看板には末社の筆頭で別の地にあったが傷みが酷く、そこでの再建ができないために本社南宮神社内に社殿を建てたと書かれています。

 

その他写真1は随神像についてのお知らせ。像はなく、代わりの写真がありました。

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その他写真2は神馬。随身門を通り過ぎて左の石段手前にいます。

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広くて綺麗な境内です。

 

【お詣りをおえて】

写真はありませんが狛犬が四対で守護していました。境内の石に生えている苔の緑の鮮やかさが印象に残っています。

 

十四柱の神々のうちに大屋都比賣神と抓津姫神の女神姉妹がおられるみたいです。木製建造物と材木の神々ですね。帰宅後に時間をかけて調べてはじめて知ったから初めての御祭神なのにご挨拶できませんでした(残念)。

 

孝霊天皇が御祭神なのは吉備津彦命が父である天皇をこの地に祀ったからだそうです(異説あり)。孝霊天皇陵と伝えられるものがそばにあります。

 

本殿そばでお願いして呼吸を整えると絶え間なく打ち寄せる波のような力を感じました。伺ってみたところ、多くのご眷属がおられるみたいです。ご眷属が多い神社は独特の感じがします。

 

良い気に満ちたとてもよい神社だと思いました。

眞宮神社( 広島県福山市新市町大字常1087)

今日は宇宙正月? なのでまだお詣りしたことのない神社へ初詣😁

 

当日にまたグーグルマップで探しているとこちらのまみや神社が気になり、またネットで備後国二宮と書かれていて、一宮の二社(吉備津神社素戔嗚神社)には既に詣でたことだし、次は二宮がいいかなと思ったわけです。

#宮についてはそれぞれ複数の神社がそう呼ばれていることがあって今回はそう言われているらしいということです。

 

御祭神だけかろうじて調べたら即ナビをセットして出発です。行き当たりばったりは現地での感動が醍醐味ですので。

 

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【御祭神】

鸕鶿草葺不合尊、孝霊天皇、宗像三神

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【眞宮神社への道】

国道486号を府中市へ向かう途中の神谷川に架かる橋を渡った所で右折して北上します。左から斜めに来る県道26号と合流して1キロ半くらい走ったら、右折して短い橋を渡ってからは500mくらいでしょうか。最後の100mくらいは道は狭いですが慎重に走れば大丈夫だと思います。

 

山沿いの道が左に曲がった後すぐに右に曲がる場所に神社はあります。そこだけ道が広がっていて広場みたいになっています。鳥居の前から奥へ延びる道は自動車参道で上にあがることもできるようでした。ただ……社殿前を横切る形になるので関係者でないと躊躇してしまいますね。

 

【境内の様子】

鳥居から本殿までは比較的コンパクトにまとまっている感じです。鳥居から随身門、次いで神楽殿(左に手水舎)拝殿と本殿です。

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拝殿

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本殿

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上は結構広いです。

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境内社のお稲荷様。

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お狐様の彫刻でほわほわです(*'▽')

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お狐様と屋根の逆さ狛犬

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【お詣りをおえて】

あまりゴミが落ちておらず気持ちよくお参りできました。ここも鳥居をくぐるとすぐ気が変化するのがよく分かる神社です。

 

 本殿横でお願いして目を閉じて精神統一すると実に涼しい気がやさしく包んでくるように感じました。

 

お稲荷様は鳥居や狛狐、賽銭箱など奉納されて大事にされていました。お狐様、私は稲荷好きなのでかっこいい! と思ったのですが人によっては怖いかも😅 ここもいい気を感じました。

 

雨上がりの澄んだ空気の中、静かな所にあってのんびりお参りできるいい神社だと思いました。

井森神社(岡山県井原市井原町1669)

井森神社|岡山県神社検索|岡山県神社庁

いのもりと読むのか。車載用自転車によりお詣りの自由度がぐんと上がった結果、初めてお詣りした神社です。由緒によるとかなり古くからある神社なのですね。

上の岡山県神社庁ページによると駐車場30台とか。無いと思い込んでいたから聞かなかったのでよくわかりません。境内=駐車場だと思いますがどこから入るのか。北側の住宅地から入れるのでしょうか。またいつか前を通った時に調べてみます。

 

目次

 

【御祭神】

吉備武彦命(吉備津彦命の弟)

【井森神社への道】

国道313号線が井原市中心部で北上し始めてすぐ神社はあります。井原市民病院前を通り過ぎて(車だと)一分もかからないと思います。鳥居は車で通れる幅がありますが随身門がどうか……。車(軽?)が通ったような跡はあります。中まで入らなくても鳥居前くらいで車をとめたら邪魔にはならないと思います。もし関係者が車でやって来た時のために、お参り中と書いた紙を車に貼っておけばすぐに呼びに来られるでしょうから大きな問題にはならないかと。

最初に書いたようにまた調べてみます。

 

【境内の様子】

社頭(灯篭と鳥居)。

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随身門。

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拝殿と本殿。

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獅子と狛犬。足の装飾が珍しいと思います。

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御神木? とベンチと北側にある鳥居。

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【お詣りを済ませて】

 国道を走りながらだと鳥居と本殿の屋根が少し見えるだけで縦長の狭い神社なのかなと想像していましたが、実際には横幅もあって、住宅地の神社としては広いと感じました。

近くの方の話では鳥居はもう少し東にあったそうですが、国道の工事によって今の位置に移されて参道は短くなってしまったとのこと。昔はもっと広くて大樹が多くあったが枯れてしまって社殿背後と北側の鳥居近くの木が残ったのだそうです。拝殿前にある木々は植樹されたものでした。

本殿は銅板葺きですが昔は檜皮葺きだったそうです。

境内社には由緒看板はありませんが中が見えるので、〇〇神社だなと分かります。

 

社殿周囲を歩いてみました。ゴミはありません。箒で掃除したらしい跡が残っていました。大事にされているのが分かるとお詣りして良かったとほわほわになれますね😁

 

本殿周囲にはふわっとした軽い気が満ちていました(あくまで個人がそう感じたというだけです)。いつも書いているご神気というのは社殿周辺で感じた様々な気の総称です。何から発したエネルギーかは特に区別せず書いています(私には違いが分かりにくいので)😅

 

吉備武彦命の子孫を祀る神社が以前紹介した御朱印で有名な縣主神社です。縣主神社へお詣りした人は車だとそんなに時間はかかりませんから、こちらにお詣りしてもいいかもしれません。

a-wi.hatenablog.com

道から隠れたいい神社でした。


神社・お寺巡りランキング

前を素通りする神社における(こちらとあちらの)相互関係

毎年恒例の神社関係のお仕事がそろそろ開始なのですがコロナ2年目の今年はのんびり構えて4月からにしたので自転車乗れる時間ができて実に楽しいです。ま、遊んだ分はきっちりと埋め合わせが待っているんでしょうが今は気にしない。

 

前置きはこれくらで本題に入ります。

 

例の黒丸神社のためにやたらと走ることが増えた国道313号線。

a-wi.hatenablog.com

備中国は南北に長いから、瀬戸内と山陰を結ぶこのルートは私には非常に重要なのです。この道沿いの気になった神社に立ち寄った話を以前書きました。今日もそんな話。

a-wi.hatenablog.com

国道313号で岡山県井原市街を北へ走っている時、井原市民病院を過ぎた辺りの道沿いに鳥居と参道が見えます。国道から参道に入る前にスペースがありますがそこは民家の前ですから駐車するわけにもいかず、黒丸神社はじめ岡山県北へ向かう時にいつも見ながら通るだけでした。

最低限の整備を済ませた自転車でここへ向かいました。母艦から出撃する艦載機みたいに行動半径がぐんと広がりました😂

 

随身門を通ってお参りを始めると男性が一人やって来ました。拝殿前からさがると話が始まりました。男性は近くの方で、境内各所の今昔を詳しく話してくれました。由緒看板がなく、神社誌にも載っていない話は実に貴重です。たまにこんな風に話を聞かせてもらえることがあります。

 

このような事はいわゆる”呼ばれた”という話になりますね。

 

今回は以前から私がじっと見て「車が止められたらお参りできるのになあ……」と何度も思っていたことが相手に通じていたのです。神社にいる存在は「それならうちに一度来なさい」と思っているがそれが言葉で通じる人間は極少数で、もちろん私には直接伝わらないわけです。

 

ですが様々な手段を駆使して呼ばれるようで、結局お詣りすることになるみたいです。

 

今回はタイミングを見事に合わせた上で、神社の事に詳しい男性に会わせるという形で歓迎を伝えてくれたものと受けとめ、男性が帰った後でお礼を述べました。

 

こちらが気にしているからあちらも気にされたというか、人間が気にした時点でどちらの側から興味を持ったにせよ既にお詣りは決定事項のようなものだそうです。結果的に人間には気になるという形で認識ということみたいです。

 

一般に呼ばれるということのいくらかはこういった感じで起こることという話でした。

 

追記:大事なことを書き忘れるとは! 気になる神社があれば晴れた日の朝にどんな神社か一度お詣りしてみてはどうでしょうかという記事でした。お稲荷様を除きます。私はお稲荷様好きなので気にせずお詣りしますが信仰の強制はできないので。

 

#今日お詣りした神社も掃除がきちんとされていてとてもいい神社でした。またいつか近いうちに書くつもりです。

今年も春季例大祭は中止?

昨年令和二年の例大祭は各地の神社で中止になって寂しい思いをした神社ファンも多かったことでしょう。私の産土神社では規模を縮小して(注意して)行われましたが、これは元々少人数で知った人ばかりだからできたこと。コロナ前に多くの人がお詣りしていた神社では無理でしたね。

 

コロナワクチンが遅れているために、今年も春どころか夏祭りもあやしい雰囲気。秋くらいからは高齢者の希望者には接種が済んでいるでしょうから、かつての祭りの感じが戻ってきてほしいですけれど、これは変異株次第でしょうね。田舎は氏子高齢化が進んでいるので警戒は必要です。

 

皆で賑やかにできないならお酒の一本でもお供えしてみるかと思っています。

不規則な階段を上るのはキツイ

山の上の神社にお詣りする時に石段が高さも奥行きもバラバラだと足にきますよね。今日の話は霊的な成長はそれと同じでとんでもなく上がりづらい階段だということについてです。

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登坂(アスファルト舗装)だと一定のペースで上がれるし、また上がって行けばいいので楽です。人生(霊的成長)もこうだったなら坂の角度の問題だけで誰も悩むことはなかったでしょう。

 

現実は不規則な段差の連続で、困ったことに一段先は霧で見えないようになっているんですね。10㎝ならすぐに次に上がれますが2mだと力を一気に出さないと上がれない。その力は経験値を稼いで貯めないといけない。経験値は主に苦難によって稼げますが、苦難に耐えるだけでは力にならず、そこからある一定の答えを出して(正解して)初めて越える力にできるのです。

 

だから不正解だと上がれません、絶対に! 所々にもの凄く高い段が壁のようにそびえていて、ここで跳ね返される人が多いです。だから悟ることのできない人が大半だったのが少し前までの世界でした。

 

何度でもチャレンジできるんですが当人には強制されていると強く感じられるために苦しみにしか思えないわけです。そして諦めて人生が終わります。

 

階段による苦しみと同時に別の問題もあります。順光と逆光の問題です。

 

写真を撮る時に順光(太陽等の光源を背にする)と逆光(光源に向かう)では撮った写真の明るさが違って色と細部に大きな違いがでます。

 

意識がある所まで到達すると逆光から順光に瞬時に切り替わります。今までは暗くて分からなかったものが鮮明に見えるようになります。写真で例えましたが実際はその静止画が無限に並んでいるのが現実ですから、一枚の写真で情報量に仮に10倍の差があったとすると、たちまち千倍、億倍と差が出来てしまうのです。

 

最初の悟りだとか覚醒とか言われる段階でも大きな差になることはお分かりいただけたと思います。

 

順光で見えるようになってどんどん力に替えられるようになるために、それを利用して階段は易々と上がれるようになります。

 

下の段はよく見え、上の段もある程度までは見えるようになっていきます。そうなると上れることは当たり前に思うようになるので精神的苦痛はどんどん和らいでいきます。

 

悟りは不退転と言われるのはそのためでしょう。例えで説明するとこんな感じです。

 

力についてもう少し説明すると、これは縮められたバネです。縮めていた別の力から解放されて瞬間に撥ね上がるので、その直前までは何も変化していないように感じるのです。だから永遠に苦しみが続くように感じられる。でも常に変化し続けているのは間違いないのです。

 

今、心身ともに苦痛の中にいる人にこう言っても受け止めてもらえないだろうと思っても書いているのは、その人の内に(申し訳ありませんが)残るからです。高い一段を上がって一時の解放感を得た時に思い出して次へ向かう意欲を増してくれるからです。

 

私は思います。今の人は幸せです。無駄に苦しむ時間が減っています。確実に。

 

ネットの無い時代、たまたま最適な書物に出会わなければ、教えてくれる師に出会わなければ、いつまでも希望の欠片もなく苦しんでいたでしょう。その絶望は今の人には分からないことなのだと思います。

 

神社に行ってほわほわしようとアホなことを言っているのは良い気を浴びれば良い方へほんのわずかでも進むと知っているからです。叩きのめされて潰れているのをまずなんとかしないとどうにもなりません。あと一歩まで来ている人の逆光順光の入れ替わりは高次元の助力によるところも実際あるのです。ただ、その裏側のことがこの世の人間には分からないだけです。

 

苦しい境遇でもがいている人は大きく変われる手前の人であることが多いです。変わったら苦しみの持っていた別の面に気がつけるようになっていますから、見えないものが持つ意味を感じられるはずです。その時、誰に強制されるでもなく己の内に多くの答えがあることを認めることができるでしょう。

 

今は信じなくてもいいです。病気で苦しい時は何も考えなくていいし、そこで強制されることはないです。個人個人、ペースは違いますから早くそこへ行こうと思うことはないし、休憩してもいいと思います。現代人は少し(かなり)焦りすぎなのかもしれません(自戒)。おそらく情報の多さのせいでしょう。取捨選択が大事になっています。

 

今回はずっと以前の下書きをUP。今まで書いてきたことと中身は同じです。表現が少し違うだけです。

 

#いつも☆やブクマありがとうございます<(_ _)> いただいた☆やコメントに対してのこちらからの☆はうっかりミスを考え、敢えて付けておりませんが、いつも感謝しております。

真心は次元を越える

大魔神(映画)は観たことはなくても知っている人は多いと思います。某野球選手の影響も大きいのかも。

 

映画の最後、悪党を始末した魔神の怒りは治まらず、罪のない領民も危うくなります。ヒロインの小笹が魔神の足元で自分を踏み殺すかわりに怒りをしずめて山に帰ってくれるように訴え、魔神の足に涙を落とします。魔神は顔を元の埴輪に戻すと像から光球となって飛び去ります。「清い涙にうたれて飛び去った」といったような台詞の後に映画は終わります。

 

これは物語だし、都合のいい話だな程度に長年思っていたのですがどうやら真実のようです。

 

一例ですが、神社の掃除を一生懸命にするうちに心から雑念が消え去り、今まで酷い状態のままにしていたと不意に涙が溢れてきた。あるいは、涙ではないが爽快感だけが体に満ちているというのでもいいかもしれません。こうした時には歓迎サインとかのレベルでない現象が本当に起こることがあります。

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真心などというと馬鹿らしいものと思ったり、軽んじる風潮がありますが高次元にはそんなものはありませんから、当然心はそのまま届きます。人間の良いところをわざと過小評価することはないのです。神がいると思っている人は、かっこつけてもお見通しだから仕方ないという心境に至るはず。人間相手だとちょっと恥ずかしいのは分かりますが、神社で心の中で向き合う時には素直な気持ちを茶化すものは居ませんから、己の中にある心をいつわらずに前面に出したらよいと私は思います。

 

何か起こるのを期待するのは真心とは少し違うように思います。そうした心も消え去った時、次元の壁という物は魔神像のように崩れ落ち、今までと違ったものを感じると信じます。きっと日々明るく過ごせるようになることでしょう。そうなれば周囲の人にも良いことだと思います。これは仏教でいう和顔施ですね。

 

今回の記事は宗教臭いです。ですが言いたいことは、己の心を見つめて良いところは素直に受け入れよう&我欲のみの人生で見えるものは少ないと知ろうの二点です。これなら宗教臭くないですよね😁

#私もネットだからこう書いていますが普段の暮らしの中で勧めたりはしません。目に見えない存在との付き合いは一対一の極私的な行為ですから。