大魔神(映画)は観たことはなくても知っている人は多いと思います。某野球選手の影響も大きいのかも。
映画の最後、悪党を始末した魔神の怒りは治まらず、罪のない領民も危うくなります。ヒロインの小笹が魔神の足元で自分を踏み殺すかわりに怒りをしずめて山に帰ってくれるように訴え、魔神の足に涙を落とします。魔神は顔を元の埴輪に戻すと像から光球となって飛び去ります。「清い涙にうたれて飛び去った」といったような台詞の後に映画は終わります。
これは物語だし、都合のいい話だな程度に長年思っていたのですがどうやら真実のようです。
一例ですが、神社の掃除を一生懸命にするうちに心から雑念が消え去り、今まで酷い状態のままにしていたと不意に涙が溢れてきた。あるいは、涙ではないが爽快感だけが体に満ちているというのでもいいかもしれません。こうした時には歓迎サインとかのレベルでない現象が本当に起こることがあります。
真心などというと馬鹿らしいものと思ったり、軽んじる風潮がありますが高次元にはそんなものはありませんから、当然心はそのまま届きます。人間の良いところをわざと過小評価することはないのです。神がいると思っている人は、かっこつけてもお見通しだから仕方ないという心境に至るはず。人間相手だとちょっと恥ずかしいのは分かりますが、神社で心の中で向き合う時には素直な気持ちを茶化すものは居ませんから、己の中にある心をいつわらずに前面に出したらよいと私は思います。
何か起こるのを期待するのは真心とは少し違うように思います。そうした心も消え去った時、次元の壁という物は魔神像のように崩れ落ち、今までと違ったものを感じると信じます。きっと日々明るく過ごせるようになることでしょう。そうなれば周囲の人にも良いことだと思います。これは仏教でいう和顔施ですね。
今回の記事は宗教臭いです。ですが言いたいことは、己の心を見つめて良いところは素直に受け入れよう&我欲のみの人生で見えるものは少ないと知ろうの二点です。これなら宗教臭くないですよね😁
#私もネットだからこう書いていますが普段の暮らしの中で勧めたりはしません。目に見えない存在との付き合いは一対一の極私的な行為ですから。