ほわほわ神社生活

ほわほわ神社生活

神社が暮らしの中にあるおっさんのちょっとだけ変わった日常です。主に岡山県広島県の神社巡りをしています。神社巡りの記録や神社のことで思うことを書いています。

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今年もありがとうございました。

コロナ以前の日常が少しずつ戻ってきて神社の祭りが復活したりと、神社に行く楽しみが変化した一年でしたね。私は遠出できるようになったら山陰や四国に行こうと思って待っていたのですが、私でも泊まれそうな宿は部屋が空いてないことが多く、なかなか遠方の神社を巡るのは大変だと思う日々でした。

 

毎年恒例年末の神社の大掃除をしました。神社の気がいっそう鋭くなるのを感じました🙂 年明けから当分は、さらに良い場所になるようにやっていかねばなといろいろ計画しています。

 

ブログについて書くと、許された範囲でしか書くことができないことにもがきながらも、皆さんのおかげでなんとか四日に一度くらいのペースで更新できました。ありがとうございます。

正月は飲んで寝てのんびりすごしますので、😅反応は遅れると思います

 

よいお年をお迎えください。

沼名前神社(広島県福山市鞆町後地1225)

以前鞆の浦の淀媛神社にお詣りしました。その時は時間がなくてこちらのぬなくま神社にはお詣りできませんでした。平日に時間がとれたので今回はこの神社一社だけと決めてお詣りしました。が、ゆっくりはできなかったので駆け足のお詣りになりました。

#ぬまくま(沼隈)は鞆の浦から西側辺りの地名です。書いているうちにうっかりして混ざっていたので訂正しましたm(__)m

 

目次

 

【御祭神】

綿津見命 須佐之男

#渡守神社と鞆祇園宮で二柱の神

【御由緒】

沼名前神社 - Wikipedia

https://tomo-gionsan.com/

下の公式内の境内図をじっくり見てからの参詣をお勧めします。

【沼名前神社への道】

道はわかりやすいです。市街から河口に近い芦田川大橋を渡って広島県道22号を走って鞆の浦を目指します。特にナビの必要もない感じです🙂

 

大橋からのメーターを見ていないので正確にはわかりませんが、7キロ程? みたいです。鞆の浦には簡単に着きますけど、駐車場をどこにするか困ると思います。地図で沼名前神社付近の駐車場をあらかじめ探しておくといいでしょう。私は広い県道沿いの駐車場をよく利用します。県道からだと少し西へ歩いて神社へ向うことになります。

 

車以外の手段として、観光地ですから福山駅間で路線バス🚌を利用できます。市街地から離れている場所にしては本数があります。

 

【👨‍🦽車椅子使用の方のための情報】

どこかの駐車場から車椅子で向かうと距離もありますし、横の坂道が急で押してもらうのも電動車椅子でもかなり厳しいと思いました。

 

実は神社の北側(社殿は東向き)の坂道を自動車で上がるとそのまま境内へ入れます。

物理的に可能という意味ではなく、車椅子の方は上がって駐車しても大丈夫とのお返事をいただいて書いています。拝殿横から境内社の前は小学校の校庭のような広い土地です。

社殿に近い方(社務所前の辺り)へ駐車しても良いそうで、障碍のある方にはとてもありがたい神社ではないかと思います😊

 

社務所や拝殿、境内社も進めないような段差はないのでたっぷりお詣りを楽しめるはずです(お詣りしてかなり時間が経っているので、写真が無い箇所については少々記憶が曖昧です)。社前に階段があります。お賽銭だけは自力では難しいと思います。

 

能舞台は一段下の境内地にあります。時間がおしていて能舞台は参道を急ぎながらちらっと見るしかできなかったので正確にはわかりませんm(__)m グーグルマップだと途中に境内への入り口があるようですが入っていないので不明です。お詣り時に上の社務所で車椅子で近くへ行けるかどうか聞かれたらはっきりしたことがわかると思います。

 

最初に書いた神社へ入る道は、県道22号から鞆の浦の少し手前(約1キロ)で斜め右へ分かれていく登坂(片側一車線)があって、それを進んだ突き当りを右へ曲がると50メートルくらいで写真の境内入り口です。

 

 

【境内の様子】

沼名前神社一の鳥居

沼名前神社二の鳥居(鳥衾というものが先端にある珍しい形だそうです)

随身

石段途中からの拝殿

拝殿正面

本殿斜めから

本殿横から

社殿全景(地面の青いものは十二支の置物です)

本殿裏の祇園幸水(山水)

沼名前神社社務所

境内社(八幡社) 

境内社(左:竈社、塞社 中央:松尾社、稲荷社、地主社 右:厳島社、艮社)

境内社(渡守神社)

境内社護国神社

能舞台から境内社へ上がる石段手前の鳥居

力石(ぎっくり腰一直線なこと間違いなし😫)

八幡社だったか渡守社か、どちらかの神馬像

参道途中神馬舎の神馬像

金属製灯籠

灯籠下部の見事な狛犬

 

【おまいりをおえて】

沼名前神社は組み立て式能舞台が唯一現存しているのだそうです。急いでいて能舞台を撮る時間がありませんでした😫  これだけの神社だと余裕をもってお詣りしないとダメでした。

 

この日は平日でしたが、外国人観光客の姿があるのはさすが観光地。私がお詣りしていた時間に限っては日本人よりも多かったです。逆に日本人の心が神社から離れていったのかもしれません。

 

大急ぎで帰路な場合はたいていメモっていません。今回、沼名前神社で覚えているのは横の道路から歩いて境内に入って行く時にすっと落ち着いていくなあということだけです😥 気持ちが良かったのは間違いないのですけど、具体的には書けません。

 

海と山の力がちょうどよく合わさっているような気もします。

 

麓から緩く山に続く境内はかなり広めだと思います。お詣りするルート(参道)は非常に綺麗でした。

 

沼名前神社は能舞台や石段上にある灯籠や複数の神馬像など、足をとめてじっくり観たいものが多い綺麗ないい神社でした。

 

淀媛神社の記事

 

a-wi.hatenablog.com

眷属(ペット)が去った

少しだけ凹んでるのです。今まで愚痴=”ねながし”はいかんと何度か書いてきました。私はネット川に”ね”は流しませんが、別の場に弱音は実はそこそこ吐いています😅 ただ、それは三次元の存在にはしません。自分の守護霊だけです。叱咤激励されることもあれば、そのまま受け入れてくれる時もあります。今回は思っていた以上のダメージなので黙って聞いてくれる感じです。

 

やってきて戻るのが仕組み。それを理解するのと、この世界特有の感情はまた別ですね。眷属のおかげであらためて学ぶことができました😌 執着はよくないと書いている者が使い終わった器に執着はどうかと思うので眷属の墓はありません。思い出と霊の繋がりだけで充分ですから。

#お墓を作ることを否定してはいません。

 

人とも動物とも、過ごした一日は二度とない大事な時間です。これからはもう少し日々を懸命に生きられそうな気がします。日頃書いている記事と違って怠けるので妹は頭を抱えているかもしれない😅 他者に偉そうに言っているといつか還ってきますね。

 

いろいろな三次元ならではの辛いことはたくさんあります。けれど、それは他の次元では味わえないこと。時間がかかっても進まねばなりません。

 

これを機に大掃除を始めました。まあたくさんのゴミが出ること😙 出してみると気がすっかり変わっているのに笑いました。淀んでいるのに慣れていると特になんとも思わないものですね。気持ちも少しだけ爽やかになりました。

 

今年も残り二週間。今年のことは今年中に(できるだけ)整理して新たな地へ向かいたいです。皆さんも己の心の重い部分を軽くするよう努めてください🙂

 

なんだか今年のまとめみたいになってしまいましたが、更新は年内にまだあります。書いていない神社が数社残っているので。

 

 追記

眷属と過ごせた日々の記憶が、柔らかく爽やかなものとなって心を満たしていくのを感じ、この世でのことを終わりにできました😊 よろしくお願いしますと頭を下げて、あちらのことはあちらにお任せです。

百射山神社(岡山県総社市三輪1347)

絵馬で知られる軽部神社から車でそう遠くない山にある神社です。一年お礼のおにぎり🍙を軽部神社にお供え後に向かいました。名前はももいやまと読みます。

#諸事情でしばらく更新間隔が普段の倍以上に、ネットをゆっくり見ることも年内は難しくなりそうです。

 

目次

 

 

【御祭神】

大山積命

相殿 吉備武彦命 猿田彦命 大物主命

#拝殿扁額には百射山神社、御崎神社、三輪神社の名があります。

【御由緒】

百射山神社|岡山県神社検索|岡山県神社庁

グーグルマップで元百射山神社とされる場所(幸山)が南東に直線距離で約1.5キロくらい離れています。そこから江戸時代にこちらに遷座みたいですね。

【百射山神社への道】

清音駅周辺は民家が並んでいますが高梁川から離れた辺りは田んぼが広がり、間を碁盤の目のように道が通っています。清音と真備の間にかかる新川辺橋の清音側(東)の土手の上を国道486号が通っています。橋の少し北で下へ降りていく道があります。これが岡山県道270号です。486号の南北どちらからでも土手の下の清音の町へ進めます。

 

このまま県道270号を東へ1.5キロくらい走ると平らだった道が緩く登坂になる手前に信号があります。これを左折して800メートルくらい走って、突き当りで道が三つに分かれる内の右を進むとすぐそこに鳥居が立っています。

鳥居をくぐって参道を50~60メートルほど進んだところに駐車場らしき土地がありました。

【👨‍🦽車椅子使用の方のための情報】

石段参道前を通り過ぎて10メートルくらい? 奥へ進むと自動車参道があります。参道始まりがかなり急で力のある男性でもキツイだろうなと思いました🙁

転げ落ちたら大変なので、宮司さんに社殿のある上の境内地へ車(大きな車だとギリギリなので軽かコンパクトカーがいいです)で入ってもいいかお願いされてはどうかと。いつ電話しても宮司さんが出られるとは限りません。近隣の氏子の方にお会いできたら相談されてみるのもよいかもしれません。

石段以外の手段があるため、お詣りできない神社ではないと思います🙂

 

 

【境内の様子】

百射山神社社頭

百射山神社由緒看板

手水舎が参道左右にあります😮

石段参道

参道上から

拝殿

本殿

本殿反対側から

社殿全景

本殿横から

百射山神社境内(社殿遠景)

境内社荒神社)#境内社は二社以外にもまだあります。

境内社木野山神社)

狛犬

【おまいりをおえて】

写真にもあるように、手水舎が左右にある神社は珍しいです。石は左右で違いがあります(奉納年のチェックをせず)から元々別の神社のものを集めたのかな? と考えながら使いました。刻まれた文を見る意識がなぜかなかったので不明です😅

 

ふたつの手水舎の間を歩きだすと数メートルで感じが変化してくるのがわかります。そのまま石段を上がるにつれて神域感? が少しずつ強くなっていきます。

 

本殿そばでは何かもやもやした感じを受けるだけで強い放射はなかったように覚えています。ただ、放射しない代わりに、もやもやと書いたようになにかが立ち込めているようです。

 

この日は11月26日でした。出雲大社の神在祭の期間ということで何か違いがあったのかも?

 

境内の気そのものは柔らかく澄んでいて、拝殿前での自由参拝を終えた後もゆっくり境内社にご挨拶しながら過ごすのがよいと思いました。

 

百射山神社はお詣りしやすい掃除がしっかりされている綺麗ないい神社でした。

産土様は身元引受人? それとも家族?

自分の住む土地を軽んじる人間のあまりの多さ、その身勝手さは良好な関係の妨げという話。本当は複雑ですがかなり簡単なものにしてあります。

 

目次

 

【身元引受人の理由】

よく霊的知識の話で親を選んで生まれると言われますがこれは正しいです。親ガチャなどというものは存在しません。

 

人間一人をこの世に誕生させるにはその人間だけでなく、その親と親の霊的関係者との調整は不可避です。その前となると私にはちょっとわからないことなので一世代前からは確実だと書いておきます。

#人によりけりなので必ずしもこうではない場合には、わりと大変なケースを書くようにしています。

 

親の人生はもちろん親のものですが、同時に子の人生も進められるように場を選びます。その場にいる存在が産土神です。

 

ある人物の人生を元々の方向で進めるべき作業は守護霊が担当しますが、力の問題で自分だけで上手くかじ取りをすることは困難なようです。

 

その時にその場で力を借りることになるのがその土地の高次元存在である産土神です。人は土地から離れては生きられませんからそれは当然です。

 

日本は幸運(ではなく意図されているがそこはここではふれません)なことにどこにでも神社がありますので、生まれた者=産子はその時点で所属先? があります。身近な神社ということで小さな頃からお詣りをする(した)ことも当然あるでしょう。

 

神と守護霊と人の間にしっかりとした結びつきがあれば、人生の荒波もなんとか乗り越えていけるのではと思います。

 

【日々の暮らしのこと】

特に理由が無くても神社にぶらっと行ってみましょうとか、掃除をしてみましょうとか、お供えという形で分かち合うこと(循環)をだとか、今までいろいろなことを書いてきましたけど、結局は今自分がそこにいるのは意味があるからそれを嚙みしめましょうに尽きるわけです。

 

上で書いた様々な行いも全てそのためのものになります。

 

【おわりに】

神は簡単に己を知らせてはくれませんが、こちらの強い想い(一時的なものではない)には何らかの形で応えてはくれるものです。ただし、微妙なことがほとんどなので人間が気がつかないこともきっと多いでしょう。

 

短期間に欲が満たされるよりも、気がついてみたらこうだったなといった感じで正しき神々との繋がりを知ることが多いのではないかなと思います。

 

昔話で欲張り爺さんや欲張り婆さんが散々な目に会うのはその心に見合ったものが還るだけのこと。これはその人次第としかいいようがないです。

 

産土神はあなたを住まわせてくれた身元引受人です。そこからさらに進んで家族になるかどうかはその人の問題。

 

家族と書きましたが元々神々と人は住む次元が違っても広い意味では家族です。霊的な能力等無くてもきちんと歩める術を用意してくれていることを理解できるかどうか、これは人生の喜びのひとつです。

玉砂利が無いっ!😱&社殿を拭き拭き💦→未来へ

このタイトルは何だ? と思われたでしょうから最初に書いておくと、いつものやつに最後はなります。そのうえで続きをどうぞ😅

 

玉砂利は一部敷いた場合、掃き掃除で他へ移動していくことや人が踏むことで地面にめり込むことにより、次第に減っていきます。定期的に補充してやらないといけません。今までは近所のホームセンターで一袋か二袋買って、汚れているのでバケツに入れてしっかり洗ってから撒いていました。

 

お正月準備にとりかかっていて、しっかり厚みのある砂利にしたいと思って仕事帰りに立ち寄りました。が、店外が妙にスカスカなのです? 豊富にあった砂利は数種類残して消え去っていました😥

 

別の店に行ってみます。なぜかありません。隣町まで出かけましたがこちらにもありません。あと二つホームセンターに行って無ければ通販しかないかも。

 

石は大磯砂です。バラスと違って角のない丸い石で、踏む足裏の感触もよくて気に入っていたのです。今まであったものがじわじわ無くなっていくのは人の信仰心だけで充分なのです😢

 

気をとりなおして年末拭き上げ大会を開催します(参加者一名)。

 

新品の雑巾がたちまちこんな感じに。これでも一度綺麗にしているからこのくらいです。最初の年は数回拭くとその面はべったり汚れて古い雑巾色に早変わりでしたから。五枚十枚なんてすぐ終了です。

いろいろ洗浄剤もあるようですがもし失敗したら大変なことになるので、私はいつも水で濡らして固く絞った雑巾(新品)で力をあまり入れずにひたすら拭き続けます。次第に灰褐色だった外宮(そとみや)の桧材に茶色の部分が増えてきて最後にはきつね色になります😆 たぶん全体で数千回から一万回くらい往復運動しているはず。

この写真だと肉眼で見た時のように黄色っぽくは見えないですね。箇所によって杉と桧を使い分けているのかも。写真のは杉かな?

一日では無理なので数日に分けて行います。それが数社なので一か月くらい前から始めないと綺麗な社で正月は難しくなるのです。半世紀過ぎた社がまだそんなに古くないように見えるようになると喜びは大きいです😊

 

人はどうしても見た目で判断します、人も神社も。おっさんは別にそれでいいのですけど、お世話になった神様まで判断されてはちょっと申し訳ないので。

 

これも循環の一環です。私の死後も今流したものはどこかへ流れていくでしょう。SNSで言葉(エネルギー)の”ねながし”をしながら、「ここしか出すところがない」という皆さん、自分が出したものが補充されるのだから、いつまで経っても自分へ流れてくるのは自分をむしばむ"ね”です。

 

少し動ける時に掃除をして変化を感じてみたらと思います。たぶん今までのあなたに入ってきたものとは異なっているでしょう。人は自分より大きな何かを感じないと変われないのかもと昔の自分にも言いたいです🙂 

 

最後はこれ😅 なんという力技でしょうか。

 

追記

なんとか使えそうなものを見つけました😄

いよいよ新嘗祭

 

海苔も買ったし梅干しもある😊 あとは想いと御飯を握っておにぎり🍙を神様の前に持っていくだけ。年に一度の新米おにぎり🍙を待っているご眷属様のことを思うと気合が入ります💪

 

a-wi.hatenablog.com

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気持ちはいつあらわしてもいいのです。ですが、その土地(国)に暮らす者として受け継いでいくことをやっていると示すのも大事なことです。なので、氏神様にお供えして日頃の感謝を伝えましょう。

 

賽銭箱周辺で置ける所に絶対に汚さないように置いて、自由参拝をおえたら持ち帰りましょう(食べましょう)😁

 

体調面でお詣りできない方は神棚に供えて神様の元に届くように願いましょう。たぶん気持ちは届きます。

 

私は竈の神様の神棚が台所にあって、ご飯を食べる時はいつも視界に入っています。神棚前でご飯食べられる日がもう少し続いてほしいのが個人的な願いです。

幸せのありか

ブログを始めていくらか経った頃から目次をつけて書くようになりました。今回はそれをやめてだらだらと書いていこうと思います。段落の繋がりも深く考えません😅

 

「幸せのありか」

 

私は一瞥体験後に悟りについて少し勉強して瞑想に入りました。そのまま仏を目指すのではなく、途中で離れて別の道へ進みました。それは平行しているので当時の延長線上を眺めることもできます。

 

心の変化はとどまることなく続きました(現在も)。ある頃から頭の中は空っぽになりました。思考の暴走に苦しむ一部の精神疾患の人には辛い話かもしれませんが、目を閉じるとそこには何の邪念もなく澄んだ空間が広がっているだけです。

 

そこで何かを考えようとしたと同時に思考は起動し働きます。止めるとまた即座に空間だけに戻ります。この動きは驚愕的な速さのため、通常ではとらえることが不可能です。

 

人間の思考(自我でもかまいません)は単なるツールに過ぎません。生まれてから組み上げられたプログラムです。これが休むことなく働いているためにそれが自分自身の霊的な部分だと勘違いしているのがほとんどの人の現状です😔

 

上でツールと書きました。ツールだからコントロールは可能です。それを行っているのは思考(の一部である言語)を介さない意識=内の霊体です。思考を自由に止められるようになる(実際には止めるのではなく不要な時は起動させないです)とそれがぼんやりと浮かんでくるので思考でない意識がかろうじてそれをとらえることが可能になります。

 

思考はそれでも己が生んだものだから己の一部だと思うことでしょう。これも間違いです。ツールという言いかたをしているのはそれが物と同じだからです。本当のことを書くと、人間と言う器で一時的な貸し借りだけでなく、譲渡することさえ可能だからです。信じがたいでしょうか? 

 

非常に多くの人にとっては己の自我(というツール)が己です。一部の人にとっては己の自我は己ではないのです🤫 多重人格と一般に思われているものとはまた違う霊的な話ですが、ここでは書くことが出来ません。

 

最近は”ワクワク”という言葉が流行です。自分が楽しく没頭できることをする(体験)ことが魂の望みなどと言われていますね。さて、この自分は自我というツールのことでしょうか? それとも奥深くの霊体でしょうか? 

 

ツールが実行して出した答えと霊の自分が望むものは、はたして同じものなのだろうかとよく思います。人それぞれですので、中にはそういう人もいるでしょう。違う人はツールを特定の実行方法で使うことで得られるものではワクワクしないと感じています。

 

何か間接的なメリットがあるのかもとは思うのですが自分で確かめることが少し困難になっているのに困っています。

 

ほぼ全ての人にとって、自分そのものである霊で考えることは不可能に近いと考えています。なら、どんな自分(ツール)であってもワクワクすることを選ぶのが良いのかもしれません。とまどって時間を浪費するより体験するのが大事ですから。

 

物質世界なので幸せと言った場合、物に恵まれているかどうかを基準にする人が多いです😑 これは率直に言えば間違いです。乞食がいる社会でそれと反対の何不自由ない暮らしのできる王子が家を捨てて修行者になったのだから、物が人間にとって絶対的な幸福の条件ではないことがわかります。

 

金をかき集めれば安心が得られてそれが幸せだと思う人が多いですが、金はこの次元にしか存在しないものです。霊的な満足と同じならば、財産を捨ててそれを求めた過去の人々の探求はなんだったのかということになります。

 

金や物は単なる一時的な刺激です。刺激によって思考が素早く反応する。そこに永続はありません。幸せは喜びとは違うものです🙂

 

結論を途中で書くと、幸せのありかは外部ではなく内部です。これから内部について書いていきます。

 

内部と聞いて人が思うのは自分の肉体という器の内側です。体の輪郭が外部と内部の境と思っています。これも間違いです。

 

思考を止めた時に広がっているのは三次元的な意味での空間(距離)ではないのです。広いとも言えるし、狭いのかもしれない表現がとても困難なものです。

 

人が内側と思いこんでいるのは器の内側(の広さ)です。そうすると世界に比べてなんとちっぽけなことかと思うはず。内側には多くの物などあるはずがないと思ってしまう人が多いのです。

 

では内部は例えば無限に湧く泉だとしたらどうでしょう? 不足とは無縁ですね、溢れている。ただの器=肉体が幸せを感じるのではないのはさすがに言うまでもないでしょう。霊的に良いエネルギーが霊を満たしているのが幸せです。これは単に高波動であればよいというのとはまた違います。

 

エネルギーは器を越えているものなので外部と内部という区別はあまり意味がなかったということになります。元々、ひとつのものを分けているだけなので、ある程度の段階まで来たら分かれたものをまとめるとまたひとつという想いに目覚めてきます。さんざん宗教やスピリチュアルなもので説かれてきたことなのでこれくらいにしておきます。

 

内部も外部もなく全ての存在に究極的には明確な区別はないと知ると自然にエネルギーは流れだすのです。

 

しかし、常に不足している人がいます。内部の泉が涸れている人です。より正確に表現すると内外の循環が上手くいっていない状態です。それも当然、己だけは安心、幸せをと思う気持ちが強くなると流れが変わってしまうからです。ためた金貨は光っていることでしょう。が、エネルギーである己はその時淀んでいるのです。堰を造ればそれも当然です。

 

今は貨幣の仕組みがあるのでそれを否定して生きるのは難しい。それとは別の流れを意識して生きねばということです。バランスの問題です。

 

人を満たすエネルギーは和のエネルギーです。これが幸せの元です。土地と神と人のムスビがこの世の姿とさんざん書いてきたのはこれが理由でした。この場合の人は己や家族という狭い範囲をさしていません。神と書いていますが、他の人間の霊も含めてです。

 

これは神社の神様を信仰しろと言っているのではないですよ、念のため。強制は無意味なので言わないのです😌 神社で説明するのは趣味みたいなものです。

 

他者がいて己が体験でき、己がいて他者が体験できる世界の仕組みがあること。それに沿って生きることがワクワクで幸せなのでしょう、たぶん😙

 

追記

十数年前の私もお金や物を抱えようとしていたのを書いておきます。

御崎神社(岡山県倉敷市生坂1479)

こちらの御崎神社は前回記事水門神社からは山の西側を少し周った位置にあります。実はあるものに会いに行くのが目的でした。

 

目次

 

【御祭神】

御崎大明神 吉備津彦命

#上記は岡山県神社誌の御崎神社の項目に書かれている御祭神。

【御由緒】

御崎神社|岡山県神社検索|岡山県神社庁

【御崎神社への道】

水門神社とほぼ同じ位置にあるために前回案内文をコピペします😅

 

総社市街地の東外れから南北に、そして倉敷駅の南を東西へのびる国道429号から少し東へ離れた所にあります。距離は倉敷駅からの方が近いです。だいたい4キロくらいです。北からだと備中国総社から6キロくらいで、備中国分寺辺りからは4キロくらいでしょうか。

 

南からだと山陽道の下を抜けて400メートルくらいの所を東(右)へ少し進んだらあります。北からだと新幹線高架下を抜けてこちらも400メートルくらいで東(左)へ進みます。住宅地なので道はやや狭い所もありますが選んで走れば不安になるほどのことはありません🙂

 

事前にストリートビューでここだけは走ったらダメな所を調べておいてもらうしかないです。

 

水門神社北の公園横からのびる道が少し登坂になっています。

そのまま真っすぐ進むと未舗装路になって奥に鳥居が建っています。

 

【👩‍🦽車椅子使用の方のための情報】

坂道を上がって平らになった道を50メートルくらい進むと鳥居があり、そこからまた50メートルくらいで社殿です。特に段差はないので、押してもらって坂道を上がることができたらあとは楽にお詣りできると思います🙂

 

【境内の様子】

御崎神社鳥居

手水鉢

参道(拝殿側から)

参道途中から拝殿

拝殿

社殿全景

社殿横の様子

磐座1

磐座2(1と同じものです)

境内社1(境内社荒神社、道祖神社、龍王神社、貴船神社岡山県神社誌にあり)

境内社2

境内社3

 

【おまいりをおえて】

会いたい! と思って行ったのにいませんでした。なぜ?😭

 

帰宅して写真を見ていて気がつきました

磐座写真2の右下、おたぬきさまです😂

 

ネットの写真を見ると少なくとも一年前から表側の祠そばにおられなかったようです。

御崎神社・この生々しい重量感は何? - 神秘と感動の絶景を探し歩いて Beautiful superb view of Japan

上の方がお詣りされた時にはおたぬきさまは祠横におられるので、その後の台風等で壊れてしまったのでしょうか? 磐座本体に意識が向いていて下の方は見ていなかったのが悔やまれます😫

 

磐座について調べてもわからないくらいですから、横のおたぬきさまのことは何もわかりません。四国と違って山陽地方はおたぬきさまを祀っている所は少ないです。貴重な機会だったのでちょっと残念です。まあ、像がなくても話しかけていたのでお詣り自体は成立でしょう。

 

おたぬきさまに会いたいのが理由でしたが、実際にお詣りしてみて驚いたのはこの磐座でした。写真は見ているから当然存在に驚くのではありません。本殿から発する気を感じようとするとこちらの磐座からの圧が強くてそちらに気持ちがいってしまいます。山奥でないのにそうした神域の雰囲気が感じられて来てよかったと思いました🙂

 

外から見ると鬱蒼としたという表現を思い浮かべるのに、境内に入るとすっきりした空間になっているのもよい雰囲気の理由でしょう。境内向かって左側下は溜池ですが実質神池の役割を果たしているのかもしれませんね。溜池がいつからあるのかはわかりません。昔、水に困ることが多くて龍神(水神)を祀ったのかも。

 

境内社岡山県神社誌によると写真の所に書いた四社だそうです。確かに写真には祀られているのは四つに見えます。神社名がかつては書かれていたであろう立て札はもう錆びて読めません。

 

生坂にある御崎神社は参道を見ればわかるようにきちんと清掃されていて、社殿周囲に強い気が満ちているいい神社でした。

水門神社&八幡神社(岡山県倉敷市生坂1451)

倉敷に用事があったのでその辺りでどこかにとグーグルマップで探して決めたのがこちらでした。本殿が二つ並んでいるのが理由です。あとは御祭神様😊

 

目次

 

【御祭神】

瀬織津姫命(水門神社)応神天皇八幡神社

【御由緒】

水門神社|岡山県神社検索|岡山県神社庁

八幡神社|岡山県神社検索|岡山県神社庁

 

二つの神社だから当然御由緒は違っています。

 

【水門神社への道】

総社市街地の東外れから南北に、そして倉敷駅の南を東西へのびる国道429号から少し東へ離れた所にあります。距離は倉敷駅からの方が近いです。だいたい4キロくらいです。北からだと備中国総社から6キロくらいで、備中国分寺辺りからは4キロくらいでしょうか。

 

南からだと山陽道の下を抜けて400メートルくらいの所を東(右)へ少し進んだらあります。北からだと新幹線高架下を抜けてこちらも400メートルくらいで東(左)へ進みます。住宅地なので道はやや狭い所もありますが選んで走れば不安になるほどのことはありません🙂

 

事前にストリートビューでここだけは走ったらダメな所を調べておいてもらうしかないです。

 

問題は神社駐車場がないことです。公園近くで道が非常に広い所があって今回はそこにとめました。

#軽自動車だと鳥居前におけないことはない感じでしたが、ここに置くと他にお詣りしたい人の邪魔になってしまうかもしれません。

【👨‍🦽車椅子使用の方のための情報】

鳥居の奥に短い石段があって、左に折れてまた短い石段を上がらないといけません。

門を抜けてしまえば回廊を通って拝殿や、横の山の斜面にある境内社(上がらなくても下に賽銭箱あり)にもおまいりはできるはずです。でも石段を考えると難しいでしょう。大勢で来たなら短い石段なのでなんとかなるかもしれませんが大丈夫とは言えないです。無理はしないでください😯

 

 

【境内の様子】

水門神社社頭

随身

回廊と拝殿

本殿二つ(左が八幡神社で右が水門神社です)

瀬織津姫命宮賽銭箱

本殿裏側

社殿遠景

幣殿横辺りから随身門方向を

随身門を境内社前から(付近の家はわからないよう処理済み)

社殿を横の公園から

鳥居から公園を(こちらもお名前は隠させていただきました)

境内社のある斜面(上がらなくても下に賽銭箱があります)

境内社下の賽銭箱のひとつ(複数の神社をまとめておまいりできる形です)

狛犬

 

【おまいりをおえて】

水門神社は瀬織津姫が御祭神となっている神社です🥰 水神として川のそばに祀られている場合は山中のお詣りとなって優しくないこともあるでしょう。その点、こちらの神社は市街地から少し離れた所で平地にあるから、特にバイクの人にとっては非常に楽にお詣りできると思います。

 

山に上がるように段々になった境内地の神社はよく見ます。平行になっているのは比較的狭い(小さな)社が多かったです。こちらはそんなに狭くないけれど平行で、随身門から一直線に並ぶ社殿は境内社のある斜面から眺めると美しいです😃

 

随身門からはっきりと空気が変わります。メモが無くてどんな感じかは忘れてしまいました😅 どうか読まれた方ご自身でどんな感じなのか確かめられてください。

 

二つの本殿は八幡神社に比べると水門神社は体に優しくまとわりつくように感じられました。本殿は木造建築で中に鏡等があるだけのはずですが、並んでいる場合に違いを感じるのは面白いです。

#いつものやつを。あくまでもその時の個人的感想です。根拠はありません。

 

緩く弧を描く(境内社のための)参道に飛び飛びに並ぶ境内社群もおまいりして気持ちのよい場所です。境内社には鳥居がある場合とない場合があります。こちらは注連柱になっている神社があり、そんなによく見るものではないはずです。たいていは鳥居と、あるいは鳥居のかわりに参道にありますから。

 

水門神社、八幡神社はよく掃除された綺麗でよい気が満ちているいい神社でした。