私は個人的な理由で記紀神話の神々と神社が好きですが、仏様とお寺が好きな人はそれでいいし、両方好きで神社もお寺も行くよという人も多いでしょう。
神社で時折感じますが、清らかを通り越して冷たいような雰囲気だと、人によっては厳格だとか神(神社)は怖いなどのイメージとして受け取るのではないかと。
お寺だと柔らかく迎えてくれるようなイメージが私にはあります。お寺の気を積極的に感じたことが殆ど無いので決めつけることはできないのですが。
お寺でも山の(僧侶の)修行の場としてのお寺と町中のお寺ではきっと違うのでしょうね。
神仏は違いはあるでしょうがどちらも高次元存在ですから、どう感じたにせよ、この世の人間を見守ってくださっているのは変わりないと思います。
でも自分に都合よく優しい存在と思うのは間違っています(ここは断言します)。時には理不尽としか思えないことも身に起こります。そうなる理由、高次元基準はこの世の人間には理解できないものでしょう。理解できないから否定では一歩も進めません。基準について望ましい態度は保留です。
神仏に見守られるこの世は様々な存在に溢れています。
己だけが存在の全てではない世界には他者が存在する理由(己が存在する理由も)が必ずあります。それは本を読んだり人の話を聴いたりするだけで理解できるのでしょうか。納得は難しいのではと思います。
人間が苦悩し、もがきながら一歩先へ進もうとする時、目に見えないが確かに何かを感じ取って、まるで霧が晴れたように心が澄む瞬間があります。その感じを掴んでほしいです。その時、己が内に湧き上がるものに気がつきます。きっと求めていた答えがそこに含まれていると思います。それ以上も。
苦しみについて日々必死に考え続けることと、差し出された見えない手に気がつくことは苦悩を越えて行く時、共にとても重要なことです。
神は神の、仏は仏のやり方で、人に働きかけているのだと私は体験から思うのです。
日常生活でそれに気が付ける人はおそらく限りなく少ないです。
求めている人がそもそも少ないです。
感じ取りやすい、気がつきやすい寺社仏閣という場はある意味近道です。
難しいことは抜きにして、時間があればお邪魔してみませんか。
ほわほわは楽しい第一歩😄
#こういう話は本当は長い時間をかけて練り上げて書いた方が良いものです。毎日更新と決めたもので、薄味です。←清々しい言い訳。