ほわほわ神社生活

ほわほわ神社生活

神社が暮らしの中にあるおっさんのちょっとだけ変わった日常です。主に岡山県広島県の神社巡りをしています。神社巡りの記録や神社のことで思うことを書いています。

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目に見えない存在を想うことは目に見える存在を想うこと

神意を伺う方法はいろいろありまして、私もそういった方法のひとつを行っていることは以前に書きました。今回はそんなやりとりに関する話からスタートです。

先日の祀られた存在にお供えについて以前聞きました。焼き鳥、おにぎり、赤飯、稲荷寿司、雑煮(雑煮、焼き鳥、おにぎりは間違いないがあとは記憶が曖昧)のうちどれが一番良かったですか? と。

答えは雑煮でした。長い間口にした事はなく、懐かしいからだと。もう少し詳しくたずねたら、お正月だからお正月らしく雑煮一緒に食べましょうとわざわざ用意してお供えしてくれた事(気持ち)が嬉しかったと。

ここからが本題。

目に見えない存在に対してまるで見えているかのように接することができるなら、目に見える存在に対しても当然できるはずなのです。何がと言えば、喜んでもらえるようなお供えを楽しく用意しているように、生きている人間に対しても相手の喜びとなるようなことができるということです。私がどこまでできているかは訊かないでください😅

この逆はおそらくありません。ここは詳しく書きませんが”できない”のです。一部の人達だけが寺社仏閣(神仏)に親しみ、多数が顧みることもないこの時代、世の利己と利他の天秤は大きく傾いていると感じています。バランスが悪いのです。

タイトルは目に見える世界と見えない世界が共存していた昔の日本に少しだけ帰らねばならないのでは? と思い書いたものです。今を生きる私達には過去のいいとこどりができるはず。令和になり良くなってきたことはこれからも進め、失われた良い物事を付け加えればより良い社会で生きられるでしょう。

さて、他者に気持ちを向けることについて……何が他者のためになるか分かるでしょうか? 難しくて正直分からないと思います。向ける側よりもどちらかと言えば向けられる側の方が分からないと思います。理由は簡単で、受け止められる状態に(その時)ないからです。特定個人に対してではなく、今の私と昔の私の関係を書いています。心の問題をこれ以上書くと神社生活ではなくなりますから(私a-wiも昔は打ちのめされ、のたうちまわり、自分も自分以外も全て呪っていた人間だと書いて)この辺りでやめにしますね。

 

神社に出かけて何か非日常を感じた結果、通うようになり、少し心が変化して自分の周りにもより優しい気持ちが向けられるようになった。誰かがこんな風になったら嬉しい……そのために、日々の掃除(お世話)で神域が少しでも高波動になることが役にたつなら、筋肉モリモリになるまで大掃除じゃ! 直接世を変えるのではなく、間接的にサポート。これが私の勝手に決めた役目です。ここで神社が恐い? の記事とリンクして、最後に無理やりほわほわにしておしまいです😅

#深夜に書くとたぶんめちゃくちゃな文章。要するに、神社でほわほわになると優しい気持ちになって人に自分なりに優しくなれるよというだけのことですね。