霊的な成長度合いが進む(本当は用語があるのですが敢えてこう書くことにしています)と行いをふりかえってあれは良くなかったと認めることができるようになります。
#ああ失敗しちゃったなあといった軽いものではなく、もっと良いものになりたいといった思いで心が一杯になるような感じだと思ってください。良いというのも本当はそういったものではないのですがイメージしやすくそう書いています。
やってしまったことは仕方ないこと。その結果身に起こることもやむを得ないこと。だが、あやまちを認めてもうしないと誓う事は霊的な成長であり、良いことだと認めるとの返答を得たので書いています。
#何度も書いていますが声が聴こえるのではありません。そんな力はありません。
人の言動は間違いだらけのようですが学んで変われたことについては高次元存在はとても喜ばれるみたいです。
ここで霊的成長について書いてみます。
霊的成長は自分の心と向き合うことをやめずに続けた人が準備が整った後、一瞥体験に代表されるような心の変化を得ることでそうなると思われているはずです。
実際、私が見て来た人(人数としては極少数です)はその過程を経ています。
が、稀にそうした体験らしいものがない成長もあるようです。
それは霊的成長が他者より遙か先へ進んだ者の影響を受けることで、己を見つめて答えを得るのではなく、いわば強制的に引き上げられた存在がいるということ。
マラソンのペースメーカーのようなもの、あるいは前車のスリップストリームを利用して高速を得た自転車のようなものと言ってよいかもしれません。
他者の力によって出来たことですので、自分一人になると元に戻ってしまうでしょう。しかし、体験したことは記録され残ります。これは大きな力になるらしいです。
このブログの初めの頃に人の向かう道という記事を書きました。その時には、今と違ったものの見方を出来る人が増えることで社会は変わると思っていました。見方が出来る人とは何らかの覚醒をした人のことだと。
今は少し違っていて、大きく成長した人(覚者)が多数に達しなくても、そうした人が核になって影響された人の集団ができることで加速していくのだそうです。
影響は宗教的な活動とは違いますので目に見えず、気がつかれることもないものです。少しずつ静かに世界は変わっていくのでしょうね。
追記
霊的とかよく分からないことを考えなくても、穏やかな人がいれば和みの輪が広がるくらいに思っていただいてOKです。