ほわほわ神社生活

ほわほわ神社生活

神社が暮らしの中にあるおっさんのちょっとだけ変わった日常です。主に岡山県広島県の神社巡りをしています。神社巡りの記録や神社のことで思うことを書いています。

MENU

諏訪神社(岡山県小田郡矢掛町下高末2896)

ストリートビューで雰囲気の良さそうな神社だと思っていました。写真を見ると社殿がまだ新しいようで、綺麗なうちに見ておきたいとお詣りしました。

 

目次

 

【御祭神】

御名方命 八坂入姫命

八坂刀売神の妹とのこと。御祭神としてはこちらの神社だけだそうです。

【御由緒】

諏訪神社|岡山県神社検索|岡山県神社庁

#写真はありませんが社殿には由緒看板があります。

諏訪神社への道】

国道486号から赤色の鉄橋のある矢掛町西町交差点を北へ向かって岡山県道35号を走ります。4キロ少々? の所、道の左側を流れていた美山川が道の右側に来た付近です。

 

北側からだと県道35号は高梁市からしばらく走った所、成羽町市街の東外れからこちらへ下ってこれます。

総社市岡山市吉備津神社辺り)からは県道80号を西へ進んで県道35号とのT字路を南へ向かうとすぐのようです。どのルートも片側一車線の道なので何も不安なく走れるはずです。

 

【👩‍🦽車椅子使用の方のための情報】

参道入り口にはポールが立っているので車を入れることはできません。南側に玉垣内への入り口があります。ただし、ロープが張られています。県道から玉垣への道幅はミニバン二台分は楽にありましたので、今回は端に寄せてとめました。ドアを開けて車椅子を降ろすのも可能だと思います🙂

 

岡山県神社庁諏訪神社のページを読むと、駐車場20台と書かれています。お祭り時にはロープを外して中にとめるのではないかと。

 

ここからロープの横を通って車椅子で中へ入れそうでした。集会所前の土地を奥へ進んだ所に坂道があって社殿のある一段高い場に行けます。

ですが、坂道途中にチェーンが張られていました。車の進入禁止のためでしょう。車椅子で通る時には外せば上がれるでしょうけど、管理者が張ったものを一時的にでも勝手に外すのはダメだと思います🙅

 

集会所と玉垣の間か、鳥居前の参道(うっかりポール間の幅を測るのを忘れました)を進んで境内へ入り、右端の道? を上がっても社殿のある土地へは行けそうです。

上の段差

ただし、低い段差があります。5センチ程度? はある感じでした(泥との境が一定でないために高さは変わります)。押してもらって乗り越えるのは難しくはないでしょう。段差以外は無理なく押してもらって上がれそうな緩い坂道です。神輿庫? の裏から社殿へ行けます。

石段を回避することは可能な造りの神社です。

 

【境内の様子】

諏訪神社社頭

玉垣内へ

鳥居

随身門(と社務所?)

本殿正面

本殿斜めから

神輿庫? 辺りから

神輿庫?

境内社荒神社?)

境内社(御崎神社?)

御神木

随身門左右大臣

狛犬

 

【お詣りをおえて】

目の前を美山川が流れる山裾にある神社です。瑞垣との間には小さな神池(堀)もあります。鯉や亀の姿はなかったです。境内社に合祀されている中に水分神の名もありました。水と無縁な神社ではないようです。

 

県道からの正面参道はごく普通の感覚のままです。玉垣の内側、狛犬の間からゆっくりと気が変化します。その次にある左右の樹を過ぎるとやや変化の度合いが急になりました。この樹々も注連柱のような役割をはたしているのかもしれません。鳥居の向こう側から隋神門までは玉垣外と比べるとややすっきりとした空気を感じました🙂 

 

随身門を抜けるとさらに一段と澄んだ気が満ちていました。これらの変化は玉垣を出た方がわかりやすいでしょう。数歩で下へ降りてくるような重さになりますから(普通の土地の感じで、別に悪い状態ではありません)。

 

社殿横では穏やかな風のような力に思えました。実は疲れた後で思い出して慌ててそばに行ったからあまりよくわかっていません😅 忙しかったため、久しぶりの他所へのお詣りで、いつもの手順を忘れていました。

 

風が吹いた後のためか少し杉の枯れ枝が落ちていました。清掃はきちんとされている神社なのはすぐわかりますから、清掃のタイミング次第でこうなってしまうのは哀しいです😥 いくらしても杉の枯れ枝はすぐ落ちてきますから。これで悪い評価をする人がいませんように。

 

他の神社では拝殿に当たる建物がありません。ひとつある社殿の造りは完全に本殿です。面白いのは、二柱の神を祀るためか、同じ大きさの扉が二枚あるその前に階段があることです。普通は扉が中央にあるので階段もそうなっていますよね。

 

こちらの諏訪神社は各部が新しく清々しい綺麗ないい神社でした。

初午で稲荷巡り🦊

今日は休日だったからのんびり詣るはずが具が貝だったので大急ぎで五社巡ることになりました。

 

今年のいなり寿司はこちら↓

 

どんと入っているのはカキです。カキの炊き込みご飯を油揚げに詰めたものです。見た目を美味そうにとか全く考えていないのでこんな感じに😅

 

でも揚げが白いのです(作った人間の好みで、私の好みではないです)。味が薄すぎで😑 せっかくお供えするのに「味無くて不味いです」と言いながらお供えするのはダメですね。どんよりエネルギーのトッピングはいらんです。またいつかお詣り時にお詫びするつもりです。

 

車内温度が上がるためにいなり寿司はホカホカ。カキがいたまないように急いだわけです。直会(車内で食べる)は揚げが不味すぎるから持ち帰って揚げを外して食べました。中のご飯はカキの旨味でそこそこでした😋

 

節分と初午がおわると雨水まではすぐ。梅の花も境内で咲いています。美しいものが美しくある間に楽しみましょう。

波と慈雨の祓いの意味するもの

妹から聴く神社ネットワーク管理者の実態。おそらく今まで語られたことのない現代のおとぎ話。

 

a-wi.hatenablog.com

 

目次

 

【神社ネットワーク管理者が持つ力の詳細】

神社ネットワーク管理者が持つ力は物理次元(ここでは三次元のこの世のこと)に物理的に作用するものではありません。神仏が上の次元から三次元へ流す見えない力と反対にこの次元から上への還流がその力🙂

 

人であれ神仏であれ、その存在が霊的な成長に応じて発揮(放射)する力は増大します。物質にのみとらわれている者の発する思念(放射)に対して、ある程度悟った物質への執着が薄れた者の思念の力は遥かに強力。それでも数千倍とか他の事で日常生活で目にするくらいには現実的な数値。

#この時点でおかしいと思われるのはわかります😅 この後、さらに驚くことになります。

 

それに対して神社ネットワーク管理者(一人ではないとのこと)の持つ思念の力は人によって違うものの、軽く垓倍とか正倍に達するそうです。そのまま信じることのできない話ですね、こうなると。でも、それくらいでないと、土地に今まで積み重なった因果を無視して強制的に吹き飛ばすことはできないのだそうです。

#イヤシロチ再生は簡単でもケガレチはその力をもってしても一度では困難だとか。

 

上でケガレチと書いているのはネガティブな念が積もりに積もった溜まり場。人がどうすることもできない悲しみの念を発してしまう場がいろいろあります。これは人が作り出したものだから人の手で解消しないとダメなものです。ですが、今の世ではとても困難だと。霊的に生死の仕組みを納得していたら発する念もそこまで強くはなかったと思いますが、これは魂の年齢差で仕方ないことかもしれません😔

 

三次元の人間が存在することで常に放射する範囲(場)は平均的な成長段階にある人で半径約2メートル程度とのこと。神社ネットワーク管理者の中には自分を中心に置いた時に1平方キロメートルをすっぽり覆う存在もいるとか。思念の力において人間の域はとっくに超えているのが神社ネットワーク管理者達です😮

 

その力の源泉は自身の意識と”〇〇”です。

 

【波の祓い、慈雨の祓い】

思念ゆえにその世界において放射は自在にコントロールできるもののようです。例えば、祓い清めるのに神道では水が重要なように、思念で洗い流すのを得意とする管理者がいるそうです。

 

水は波となって一切を洗い流すこともあれば、降り注ぐ雨となって穢れを溶かし込むこともあります。

鏡のような水面に投げ込まれた小石が周辺に波を作って広げるように、神域で己から拓く放射で穢れを押し流すことも、乾いた大地を潤す優しい雨のようにエネルギーを降り注いで変えていくことも自由自在。神域の広さや状態に応じて適切に対処するのだとか😮

思念は時空を超越するので直接現場となる神域を訪れることもなく、必要なら自宅から清めの線状降水帯を出現させることで無数の神社を繋ぐエネルギーの道をかなりの広範囲で整えることも可能とか聴くと、人間の役割はなんだろうと思うことでしょう。それについては最後に書きます。

 

【終わりに】

神社ネットワーク管理者は人間がもう少し我よしを抑えて進んで行ったなら生まれることのなかった(必要なかった)存在だそうです。世の祓い清めだけなら神社ネットワーク管理者チームだけで可能なのかもしれません。ですが、それでは他の人はどうすればいいのでしょうか? なぜ存在するのでしょうか?🙄

 

三次元は三次元にいる人間に任されている以上、一人残らず責務があるのです。一人分は微々たるものです。でも大勢が背負わないというなら高次元の管理者権限でなんとかしないといけなくなる。ただそれだけのこと。

 

そんなことを言われてもどうしたらいいかわからない? 借りた側がすることは、この世に来た時よりも美しく。たったこれだけです、いつの世も😑

#めざしたがダメだったというのとめざすことをしなかったのは天と地ほど違います。分担を処理することと人生を楽しむことは両立します。よって言い訳は通用しないのです。

 

美しくは物心共にです。ゴミ拾い結構。誰かが執着に苦しんでいたらそこから抜け出せるようほんの少しだけ手をかすも結構。より美しくはより明るくで結構。

 

我よしが出す放射よりも皆よしの放射の方を上回らせたらたぶんそれでいいのでしょう😌

 

でも今は全体として全く足りないのが哀しいですね😥

 

少しでも流れを変えていきましょう(生きましょう、行きましょう)。

 

人生の苦難を薙ぎ払う己が草薙剣を持つこと

草薙剣のあやしい解釈と、思念のレプリカを持つことの話です。

#今回は今まで書いてきた記事の中で一番慎重な扱いが必要になるものです。読むだけなら何も問題ありませんが、実行は熟慮と覚悟が必要です。

 

目次

 

草薙剣の話の意味】

相模国で周りに火を放たれた時に日本武尊天叢雲剣で草を薙ぎ払ったことから草薙剣とも呼ばれるようになったのは記紀神話好きならご存じのはず。

記紀神話は解釈がいかようにもできます。後世に伝えたいために書かされている本ですから、日本武尊の話では尊から学ぶべきものがあります。あとはどう受け取るかです。

 

剣は危難を切り抜ける力(心)の象徴ととらえてよいと思います。それを置いて危難に向かえばきり抜けるのは難しくなるでしょう。

 

本物は誰も見ることもできず触れることもできませんが、自分だけの草薙剣(的なもの)を持つことは可能です🙂

 

【剣をいただくために】

日本武尊を祀る神社は尊の遠征の話から現在太平洋ベルトと呼ばれる場所には多くあると思います。こうした神社にお詣りして尊から授かることが可能です。

 

このことは神社で伝えられていることではないでしょうから聞いたことが無い話のはずです。実際、妹から聴く限り、”剣ください”なんて神にお願いする人間いないよとのことなので😅 でもこれはただのクレクレとは違うのだそうです。

 

具体的に書くと二拝二拍手一拝(礼)の拍手の後にお詣りしたわけを話します。

 

1.日本武尊を祀る神社にお詣りする。

2.尊に「我が人生の炎(苦難)を薙ぎ払う剣を与えたまえ」と祈念する。

3.両手を差し出して剣を受け取り、剣を我が身を鞘として収める(思念で)。

4.尊に「この剣で力強く我が人生を切り開いていきます」と誓って下がる。

 

こんな感じでイメージの剣を受け取ることができます。人間は剣と思うそれは神のエネルギーです。当然、生半可な気持ちではいただけません。強い意志の力が試されます。尊に認められたら輝く剣をいただけます。

 

#妹経由の情報ですから信じない方は信じないで結構です。今回は誰でも気軽にの話ではありませんから、むしろ信じないでください。日本武尊との約束なのです。あなたに尊に習うその勇気がありますか? 

 

【我が身を鞘として】

剣は常に使う物ではありません。鞘にある時が大事です。神より賜りし物を粗末に扱うことはしない決意がなければ、本当にいただいたとしてもその剣で炎を薙ぎ払うことはできないでしょう。神と真摯に向き合う心が神との付き合い方の形です。

 

剣を錆びつかせないための日頃の思いが最も重要となります。人は視覚に頼る生き物ですからイメージしやすい剣が必要。でも、本当に必要なのは剣のイメージではなく、苦しい時に己一人でダメなら人の力を借りて挑むこと。借りれないなら戦える時まで撤退すること。最終的に前に進めたらよしとすること。生きている己を尊ぶこと。これらの思いです🙂

 

我が身を鞘とするというのは、内に光り輝く己を見つけて維持することです。その輝きは人が神々の末裔である証。剣を大切にするためには、鞘である己を大切にしないと無意味です。

 

神が認めた者は何でも物事が楽になるのではないのが悩ましい点でしょう。むしろ、やってみせろよと苦難は次から次へと訪れるはず。ただし、苦しい時にはいつも神のまなざしは己へ向いていること、ご眷属様も同じであることを知れば乗り越えていけるはず。

 

共にある。つまり剣と鞘が神と人なのです。

【おわりに】

たんに神々に人生こうしていきますと述べるだけではつまらないでしょ? 厳しい事の中にも楽しいことはある。思念の力を良い方へ使って人と人の世に輝きをもたらすことは望まれること。この世で輝くことは容易ではないからこそ美しいのです。

 

輝くどころか自ら暗くする人間が多過ぎな世で、どす黒いエネルギーを放たないことがどれだけ称賛されることか、皆がそれを自分で聴けたらいいのになと思います😌🙏

 

立ちふさがるものを切り開いて進む背中を見せることで、おびえる幼い魂やこの世の経験不足の魂に教える者に誰かなる気はありませんかという話でした。

初午祭2024🦊は12日🙏

ということでまだしばらくあるので安心😁 と思っていたら”神武天皇即位の日”の翌日でした。この日もお詣りに行くなら10日までに作る準備しないといかんということですね。氏神様が稲荷の人や崇敬神社が稲荷(少数のお詣り先)な人は振替休日ということもあって自分で好きに作れるかもしれませんけど、私のようにやたらと多くの稲荷にお詣りする人間は数が大変なことになるのでスーパー等で買う方向になってしまいます😅

以前は一応作っていました。

 

a-wi.hatenablog.com

本当はお稲荷様(御祭神とお狐様)を驚かせる(楽しませる)ような変わったいなり寿司を作りたいのです😫 おっさんが考えていることが、手作りチョコを渡すぞと板チョコをどろどろ溶かしている女性と同じなのがおかしいです。こうした人の気持ちに性別は関係ないですね😁

 

スーパーやコンビニで恵方巻はもう当たり前になっていますね。では初午いなり寿司はどうかと言うと、何年も前からコンビニ各社は初午について書いていたり、いなり寿司の新商品発売もされているようです。

 

稲荷神社を嫌いでない(既にご縁がある)方はこうしたものを利用して普段とは違う特別なお詣りを楽しまれてはどうでしょうか? もし休憩所があってそこでいただいても大丈夫ならセルフ直会できますね😋

 

その時にほんの少しでも今食べていることに喜びを感じられたら、飢餓に苦しむこともあったご先祖様達から続く己の器(身体のこと)を大事にできるでしょうし、自分がどれだけ多くのものを受け取っているのかを思えるかもです。

 

その国に生まれてその国の伝統を味わないのはとてももったいないことです。まあ、伝統といってもその形になってからあまり年を重ねていないものもありますが、細かいことはいいということでお願いします😆🙏

神前は振り返りの場

今月は忙しいので今回は短めです。

 

晦日詣りや朔日詣りで一か月間の感謝をしますね? あの時にただ「一か月無事に過ごせました。ありがとうございました」ですませている人は多いだろうと思います🙂

それでもかまいませんが、一か月をより詳細に振り返って、良い事は素直に喜び、困った事はそれでどう前向きに考えることができたかを神様にお話ししてはどうかと。

 

神々が喜ばれるのは、子孫になる人間がこの世で生きることを喜ぶ姿を見ることはもちろんですが、他には苦難にあっても自らの思いと行いで大難を小難に変えて(乗り越えて)いくことです。この世に来る前と比べて少しでも霊的に前に進んでいるのを望まれていますから😊 それが先に生まれた魂の使命でもありますので。

 

日頃から神々が喜ばれる道を歩んで行っているかを少しでも考えているかいないかは、人生最後にあまりにも大きな差となります。神社や神々を意識しなくても明後日の方角を向かずに生きている人もいますけど、意識せずにずっと向くのはなかなか大変です。出来ている人はすごいなあと思います。

 

神社(あるいは神棚の前)で日々を振り返るのを習慣にすることは、ひとつひとつの出来事をおろそかにせず、自分の人生全てを大事にする思いを発生させます。これが神社にとっては非常に重要です。また、参詣者本人もよい思念の力を発揮するのはどういうことかが次第に理解できるように(たぶん)なります😃

 

そのあたりが個人のペースでよいのが神社というもののよい点でしょう😉

氏神様(産土様)の力🙏

目次なしのだらだら記事です。今日はパワースポットとして紹介されることはないだろう全国の多くの社の話です。

 

現代人にとっての意味はにたようなものになっていますから、ここでは生まれた土地が違う人はその神社は住んでいるご町内と別に(氏神様と産土様が)あることになります。生まれてずっと同じ家(土地)に住んでいる人は同じです。

氏神様が誰でも知っているような大きな社の人もいれば、氏神様が旧社格で無各社の人もいるでしょう。氏子数としてはこちらが多いかも。

 

住んでいる土地の神=氏神になっているが、小さく個人的に好きな神様を祀っていないこともあって離れた大きな神社にお詣りしている。だから町内の小さな氏神様には初詣くらいしか縁がないという人は御朱印やお守り等の関係もあって結構いるのではと予想します。

 

両親は実家を離れて結婚して自分が生まれたとしたら、そして近所の人とあまり親しい付き合いがなかったとしたら、氏神様の御神威を高齢の氏子から聴くことなく成長しても無理はないと思います😑

 

土地のお年寄りから聴く神社の話は本当かなあ? と首をかしげるものも中にはあるでしょう。昔はバチを意識している分、そうしたものよりの多少尾ひれがついた話の流れになっていることは考えられます

 

物心つく頃から氏神様の信仰を自然な流れで吸収してこないと、不思議な話は不思議なことで終わるだろうなと思えることはいろいろとあります。ありますけど、機会がない人にはなしです😔

 

氏神様(産土様)が自分の好みの崇敬神社と違うのは、氏というようにそこに住んできた親戚との縁が自身に及ぶからです。崇敬する大社がどれだけパワースポットともてはやされようとも、自身が生きているその場とのムスビがあるのは土地の氏神様(産土様)です。このムスビは人が生きていくうえで基本になることですから、決して軽んじてはいけません🙂

 

大きな神社は神様も凄そうだからお願いも叶うかもと思いがちなのはわかります。ですが、よほどとんでもない願いでもないかぎり、少し時間がかかっても(条件が整ったら)叶えるくらいの力はその土地の小さな氏神様も持っているのです。

 

神々は自分(と自分が祀られている神社を)拝めとは思っておられません。ご眷属様は閑古鳥はよく思われないでしょうけど😅 特に、他の神社から勧請(お願いと契約)した神社では。あちらから来いと呼ばれたら行くでは……でしょう。立場が逆です。

 

よく、神様には事細かく事情をお話して自身の要望を伝えることと言われますね? なぜそう望むのかはしっかりお話すべきでしょうが、結果に影響する過程まで細かくし過ぎない方がよいのかもと思うことはそれなりに経験してきました。

 

人間の視野は、特に困難の最中には驚くほど狭くなります。一方、神々は広くものを見て最適なものを選ばれます。人間の判断より確実に上なのですから、そこはお任せした方がよいと私は思います。

 

つい先日も困り果てて限界が近い人の願いが思わぬほどあっさりと決まるのを見ていました。人間として一生懸命頑張ることに上乗せしてくださったのでしょう。

 

その人自身は神社へのお詣りに熱心なわけではないようです。上のケースでは他の当事者や周辺の人のお詣りやお願いと同時に、精一杯な人のことを考慮の上で起こったことと感じました。

 

これは氏神様というよりもより近い産土様のことになります。町内に複数の神社があることもありますから。

 

氏神様、人によっては産土様の御神威にはそれぞれ特有の傾向が見られます。これは具体例を書くわけにはいかないのですが、敬神の念のある氏子(産子)とそうでないものにはやはりはっきりした”おかげ”の違いがあります😌 人生最後の贈り物でした。

 

暇があればお詣りしてお願いもするが同時に日々の感謝も忘れない。自分にできることとして掃除などをしてお返しをする。ムスビの良き渦巻はそこに触れた他のものも変えていく。御成敗式目のアレは少なくともある程度までは正しいと思います。

 

自分の氏神様(産土様)に御神威を発揮していただけるように努力することなく、棚ぼたを望んで大きな社に行っても、単なる社殿見学でおわることでしょう😲 身近な神社とのムスビをしっかりとしたものにしていれば、特別な問題に対しては遠方の神社にお願いしてもお力をいただけるかもしれません。

 

かもしれませんと書いたのは、どうにもしてやれない事情はいろいろとあるようですから、それはかなわないケースになってしまいますので。

 

実家を離れて新たな家でそこの氏神様と暮らしている時も、もし生まれ故郷に戻った時は産土様にご挨拶しておくべきかと思います。自分のことを故郷の誰かが産土様にお願いしているかもしれませんので。実際にそのケースを知っています🙂

 

知らないし、自分がお願いしていないのだから、お礼詣りは必須ではないです(できません)。ですが自分のために誰かが何かをしてくれていたなら、感謝は当たり前ではないでしょうか? 死ぬまで知らなくて何もしなかったということを避けるために、もしかしたら誰かが自分のために日々お願いをしてくれているのかもしれないと思って来ましたと一言ご挨拶したうえでそうすればと。それが勘違いでもたぶん悪いことではないでしょう。

 

まあ、こうしたことを思う人はそもそも普段から目に見えないことに感謝しているからこの部分は不要かもしれないですね😅

#繋がりは自分が気がつかないことわからないことが無数にあるはずと思うことで、思い上がらず生きていくことができるのでは? と思います。

 

適当に生きていながら神様にお願いすることはできないと思って懸命に生きれば、それから死ぬまで神社に行くことがなかったとしても、見えないところでしっかりと神々と繋がっているはず。

 

己に正直に生きるということが今の流行(はやり)ですが、欲望を満たすのに必死なことがそうではなく、正に直にこちらからあちらまで貫くことを試してみてほしいです💪 生きていられる間に😌

 

追記

江戸時代の人も、病気平癒のお百度もすれば物見遊山で遠方へのお詣りもしてますし、他所の大きな社⛩️にワクワクしてお詣りするのはもちろんアリです☺️  

七草粥の日でしたね

ja.wikipedia.org

忙しくて前日までに七草を購入できず。当日でもなんとかなるかと思って探したのですが、朝食べるものだからもう置いてない😱 それでも探し続けてやっと発見。自分でそろえる手間を考えるといつも気軽にできるセットです。

 

買ってきた七草セットは神棚(竈の神様)にお供えした後、刻んで粥にしました🙂

 

家に複数の神棚があるとお供えが大変ですが、目的別に朝晩以外にも神棚にお詣りできて神々との生活を毎日意識できていいです。

何から何まで行事はできませんが、あまり手間のかからないものはするようにしています。その国に生まれて住んでいる(暮らしてきた)確認みたいなものです。

 

明日は我が身。別にしなくてもいいかではなく、この人生では日本(と日本に住む自分)をできるだけ体験して戻れたらいいのではないかなと思います。元日以来、その思いで自分がやるべきことに前よりも励んでいます。次はどんな世界か誰にもわからないですから。

 

正月はここまで。初詣をすませた人は次の初午(稲荷詣)へ進んでいきましょう🙂

引野天神社(広島県福山市引野町北3-24-13)

海沿いの神社にお詣りしようとしたのですけど駐車場が不明なために北にあるこちらにお詣り。たぶん多くの方が調べるまで勘違いしている神社かと。

 

目次

 

【御祭神】

少彦名命

相殿:高龗神 大国主命 大戸姫神 底筒男神 中筒男神 表筒男神 

   大山祇神 大歳神 宇賀魂神 火之迦具土神 比売神 大己貴命

   武内宿祢 仲哀天皇 神功皇后 応神天皇 市寸島姫神 天照大御神           

【御由緒】

元慶三年(ハ七九)藤原諸房公が少彦名命を祀ったのが始まりだそうです。

名前は同じでも、道真公を祀る各地の天神様よりも古くからある神社だとわかります。

【引野天神社への道】

国道2号と国道182号の交差点から東へ少し離れた所にあります。JRだと大門と東福山の間です。歩いてお詣りできないこともないですが少し距離がありますね。東福山駅の方がやや近いです。

 

車だと国道2号線引野町4丁目交差点を北へ曲がってすぐの引野町2丁目交差点を右折します。約300メートル先の引野町2丁目東交差点を左折。目の前に山があって、その麓に神社駐車場があります。

かなりの台数(枠は十数台)とめられますから心配無用でしょう。

【👨‍🦽車椅子使用の方のための情報】

上記のは石段を上がってお詣りしたい人のための駐車場です。山の北側から自動車参道を上がった先にも下以上に駐車(25台くらい)できます。

舗装されていますし、障碍者用スペースが社殿の側にありますから車椅子の方も楽ですね😃

この駐車場へ行くには、下の駐車場横の坂道を上がって150メートルほどで左への道があるので曲がります。曲がってすぐまた左へ曲がるとあとは道なりに進んで下って行きます。左に注連柱があってその間を通って駐車場まで100メートルくらいでしょうか。写真は通り過ぎてからのものです。

自動車参道までは住宅地の間の道で狭いですし、人がいる場所だから走行は慎重にお願いします。

 

拝殿と境内社はそれぞれ石段を上がるのでその前からのおまいりになります。社殿周囲は下の写真のように段差はありませんから、駐車場から車椅子でおまいりは楽でしょう。拝殿前参道は気になるほどの段差はなかったと思います。

 

 

 

【境内の様子】

#彫られたお名前はボカシ処理済みですm(__)m

引野天神社社頭

石段横から

石段参道

石段上から

随身

拝殿正面

拝殿

本殿

社殿全景

境内社(諸房神社)

神輿庫

石段下狛犬

灯籠上の獅子? 狛犬? 

 

【おまいりをおえて】

天満宮の名は大きな神社で、分社の天神社は比較的小さなものと思っている人は多いのではないでしょうか。私はそう思っていて、急遽向かったのでこちらは道真公を祀る神社だろうと思っていました。が、お詣りしたら少彦名命主祭神でした。天神地祇という意味で天神の社ということなのでしょう、きっと。ネットで他の方の参詣記事を読むと皆さん御祭神を勘違いしていました😅 私は何回このミスをしたかわかりません。きちんと調べる一手間を省くのはよくないことです。

 

道の説明で書いたように、山の上にある神社にしてはお詣りする人に実に優しい神社でした。2号線から少し離れているだけなので土地勘の無い人でも困ることはないと思います。

 

諸房神社御祭神は藤原諸房公。9世紀の備後国司で善政で民に慕われた方だそうで、後に祀られたそうです。非常に詳しい由緒看板があったのですが一部でなく全部しっかり現地で読んでほしいと思いここでは無しにします。

 

地元の方の散歩コースになっているみたいで、少し時間が経つとどなたかが上がってきたのが印象に残りました。

 

石燈篭の上に獅子? 狛犬? が逆立ちして乗っているのはここ以外で見たことがありません😮 かなり珍しいのではと思うので、お詣りされる時にはよく見てください。高い所なので、灯籠マニア以外はよく見ないで素通りしてしまうかも😅

 

今回もメモっておらずかなり時間が経ってしまったので境内の気は詳しいことは思い出せません。とても落ち着いた気だったような覚えがあります。でも寂しいような感じは皆無です。日常気軽に足を運んで安らげる場だと思います🙂

 

引野天神社はバリアフリーにも配慮された丁寧に掃除されている綺麗ないい神社でした。

辰年ということで龍神様🐉の話

本年もよろしくお願いいたします。

 

うっかりミスを一部修正していますm(__)m

 

水神(龍神闇御津羽神の事を書こうと、このところ妹と押し問答真っ最中。が、絶対書くなとの返事。推し🥰のことを書きたいのは自然でしょう? 書くな一辺倒でこちらも「ちくしょう書かせろ」と喧嘩腰←念のため、神様にこれは絶対ダメですから😅。神社でこれやるとご眷属様から叱られます😠、こっぴどく。

#神社で公然と神に喧嘩を売る人(私ではないです)が本当にいるのです。その結果どうなったかはとても書けません。

 

残念ですがさすがに妹から聞く女神様の意向を無視はできません。いつか書ける時をお待ちください(来ないかもしれません)。今書けるのは、この女神様は別の有名な名前を持っているということだけです。

 

他の龍神(水神様)のことにしましょう。内容は古事記とは違います。

 

以前書いた貴船の神からにしますね。

a-wi.hatenablog.com

貴船の女神様(より正確には奥宮の高龗=〇〇〇〇〇〇の神)は豊かな髪を肩辺りで束ねておしりの下まで垂らしています。顔はわりと幼い雰囲気だけど、発する神気は威厳に満ちています。とても古い神様のお一人です。上の記事で書いたように非常に厳格な女神様です。

 

弥都波能売神はもう一人の女神と共に全ての水神(女神)の親になる女神です。貴船の神の母親です。大勢の方が女神を思う時におそらくこんな感じではないかな? と思われるような細面の整った顔の女神様です。水神の別名で闇龗神でもあります。水神様としてではなく別の名で祀られている神社は極めて多数で、そうと知らず皆さんお詣りしてお名前を呼んでいる女神様です。

 

木花佐久夜毘売市杵島姫命で弁天様です。サクヤヒメは山の神の娘となっていますからイメージが龍神と違いますが、宗像三神や池の中にお堂がある弁天様だと水神のイメージ通りですね。弁天様=サラスヴァティ(インドの川の女神)と思われているから、それは当然でしょう。貴船の神の娘、磐長姫と姉妹なのでサクヤヒメも貴船の神の娘です、本当は。

 

瀬織津姫弥都波能売神と従姉妹。水神は実質この女神二人から始まっています。龍神🐉は男神もかなりの数おられますが、女神が水に関係する神として人に接することになっているようです。

 

水神ということで淡水の女神様を書きましたが、海の女神様も龍神🐉です。豊玉姫玉依姫もそうですね。

 

女神様のことを書きたいがゆえにこう書いてきましたが古い男神もそうです。神々が人の前に姿を現す時には驚かせないように人間と変わらぬ姿をとります。それ以外に、この世の人間とは違う姿もあるということです。

 

最後にひとつ……闇御津羽神の神社にお詣りしろや! です😤😤😤😤😤😤😤😤😤😤😤😤😤😤😤😤😤😤😤😤😤😤😤😤😤😤😤😤😤😤😤😤😤

お祀りする神社ありますか? (あまり)ないんだな、これが。

 

a-wi.hatenablog.com

#私の推しなので勝手にこう言っているだけだから、無理にお詣りする必要はありません🙂

 

===============

初詣は済ませていましたが能登半島地震のことでまたお詣りしました。直接何かできなくても元日に被災した方々を思う気持ち(そうした思念のエネルギー)を各自が発してくださいm(__)m

#ブログ等に書けということではないです。もっと自由な形でかまいません。

 

”和”を試されるような事態がもしこれから続いても失わないでほしいのです。

 

正月を普通にすごせる方はそのありがたさをしっかり噛みしめてください。