ほわほわ神社生活

ほわほわ神社生活

神社が暮らしの中にあるおっさんのちょっとだけ変わった日常です。主に岡山県広島県の神社巡りをしています。神社巡りの記録や神社のことで思うことを書いています。

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護国神社記事がないのはなぜか

神社ブログの形をとっていても神社巡りブログとは言えない。なぜならそこに紹介以外の意図があるから。それは何とも言えない違和感となっているのはよくわかっています。このブログの神社巡り記事は250近くありますが、これだけあれば当然一定数あるはずのものが欠けています。護国神社です。備後護国神社は個人的な事情で例外として書いています。

 

なぜ今まで書かなかったのか? それは英霊に対する考えのためです。終戦の日に公開しようと下書き保存していました。

 

目次

 

【英霊への想い】

私にも親戚に英霊はいます。赤紙のために一兵卒となり、遠い異国で亡くなりました。自分が変わってから、この英霊が未だにあの世に還っていないことを知りました。それからは英霊さん達は戻ってほしいと強く思うようになりました。

#今回の記事での英霊とは、祭神として人々のために精一杯働くぞと心底そう思っていた人以外の、心のどこかに家族の元に帰りたいとの思いがある徴兵された兵の方だと思ってください。英霊という言葉で多くの人達を一括りにしてはいけないと思います。

 

【責務はたすきリレー】

神々はこの世のことはこの世にいる人間に主導権を渡され、自分達は管理者として場の維持を司るとして三次元人に見えない所に留まられました。

 

この世に生まれた者はその時点で大なり小なり責務を負っています。それは個人的な課題とは別物です。故に、面白おかしく過ごせばいいとか家族が楽しければいいというのは責務を必ずしも果たしてはいないのです。

 

個人的な課題を他者に押し付けることはできませんが、責務はその時の分担ですから、寿命が尽きたら他者へ渡すことが可能です。渡してあちらへ還って行くのです。これがあの世とこの世の流れ=理(ことわり)です。

 

英霊として祀るのはこのたすきリレーをしないことになるようです。神々は皆に責務を負うようにされているのに、一部の人間だけにこの世のために働くことを求め、他の者達はたすきを受け取ることなく、走ることなく遊んでいる世界。これは理から外れた行為ですから様々な面で本来と違う形でこの世に噴出するものを生み出していきます。

 

繰り返しになりますが、皆生きている間だけ負うものがあります。一部の者(英霊)にだけ押し付ける権利など人間はおろか神々にすらないのです(仮にあってもされないはず)。ならば、修正しかありません。たすきリレーを皆で行うことが求められています。

 

【人を送ることの意味】

人をひとりあちらへ送る手伝いをすることは仏教的な言葉で言えば大変な功徳になるそうです。妹に日々の善行と比較して尋ねたことがあります。日々の善行とは、”朝起きて通勤中にタバコの吸い殻を拾って灰皿に入れる。機器の操作に困っているお年寄りの手伝いをする。SNSなどで暖かい言葉をかける”といった小さな心遣いの事を指します。一日分の数々の善行では全くお話にもならず、ひと月いや一年の善行程度でも比較できるレベルではないと。

 

これは今の人間(社会)にとっては善行でも本来は人として当たり前のことで、当たり前のことは当たり前でしかないからだということです。もちろん、それも文字通り良い事ではありますけど、人をあちらへ送るのは特別なことなのでそもそも比べる事ではないそうです。

 

なぜこの世にとどまる人を送るのが大きな事かと言うと、これはこの世とあの世の循環の正常化への貢献だからです。最終的に神仏の仕事になることに未然に対処するのですから、人の善行とは元々次元の違う話だったのです。

 

神々はシステム管理者です。管理の権限はありますがユーザー(三次元存在)の行動を全て統制するものではありません。現場のことは現場でが方針のようですから。一々自分達が出るのでは三次元の存在理由が無くなります。

 

専門家任せではダメな理由があります。それは皆が分担する形が理ということでおわかりいただけるかと。

#僧侶の役割の否定ではありません。僧侶は一個人として他の人よりも少し多めに受け持っていることが違うだけですから。

 

【神社での英霊さん達への話】

私は境内社を含む護国神社や忠魂碑等に誰かが立っていると聴くと、その方へ話をしています。

 

内容は、”英霊と呼ばれる人だけが死んでも責務を果たし続けねばならない義務はないこと。この世のことは生きている者が責務を負うのだから私が自分の分と合わせて引き受けること。心配かもしれないが信じてほしいこと。もし還りたいのであれば一人一人に己の思いで還る権利があること。今の私では想像もできない情勢の中、それでも懸命に生ききったことがあちらでは認められていること。今までの労に感謝していること。今の我が国の我よし人間の多さは目を覆わんばかりでも、あなたがたには公の心があるはずで、それならば人生最後の仕事としてあちらで待っている人の元に戻ってあげてほしいこと。これについては強制するものではなくあくまでもお願いであること。神社で別れを告げたいと思う人がいるのなら、その人が来るまで待つのは自由であること。今を生きる同胞の力になりたいから残ると思われる方もおられるかもしれませんが、あちらの同胞と力を合わせて働くこともひとつの方法であること等”

 

生まれた時は違っても同じ日本人同士、話の途中から足元だけに雨が降っている見ず知らずの人間(私)を見る英霊さん達も号泣しているらしいのです。私には見えないし聴こえないのですが。

 

皆さんの守護霊に伝えますからあちらでも準備していることでしょうと話して、もし戻られるなら、私はここで見送りますと話します。

 

最後はお互い笑顔でお別れです。見えないですがあちらで歓喜している人々の姿を脳裏に思い浮かべて車へ向かいます。妹に戻った方はいた? と訊いて、いたよと返事があったら、「よかった。今はゆっくり休んでください」と思いながら車を発進させます。

 

神社や忠魂碑等でありがとうございますとかかわいそうにと思うと、それが彼らの英霊としての立場を固定してしまう。英霊としての未来しかなくなってしまう。だから違う未来を示すのです。英霊という存在ではなく、同じ日本人としてひとりのあなたを尊重しますと心の底から伝えるのです。ここで言霊の力を呼び起こすのです。

 

交流の場としての神社の側面は己の霊を持って神(霊)に対することです。これはよく知らないけどなんだかかわいそうな人達と思って手を合わせるのとは異質なお詣りです。

 

仮に英霊さん方が全員還ったらどうなるのでしょうか。その場合には、他の神霊(いわゆる土地神様)が代わりを務めてくださるらしいです。神社としてきちんと機能するので、その面での心配はいらないのは良かったです。

 

実際には、祭神となって頑張れることを強く望んでいる方もおられますから、県レベルやひとつの市レベルの護国神社であれば上で書いたようなことにはならないみたいです。

 

ここまで書いたことは一部とはいえ、今の祀るという行為の否定です。これが今まで書けなかった理由です。

 

【理の修正の結果】

この世とあの世の理は循環です。生死によって場と学びを変えて成長を続けるために設けられたものです。循環せず滞るのはシステム上は好ましい事ではないようです。

 

神社を建てて祀られたらこの仕組みから逸脱します。正確には例外事項のようなものらしいのですが、さらに細かいところは残念ながら私にはわかりません。

 

赤紙が届いて家を出ていく前夜、布団をかぶって密かに枕を濡らした若者の数は誰にもわからないことです。こうした人が死んだら英霊で国を護ると急に変わるものでしょうか。家族や故郷への想いの方が強いのが人間ではないでしょうか。

 

死んだら還るは自然なこと。そうなるようにしてあげることは理に沿ったことと私は聴いています。

 

英霊と呼ばれても人が本来戻る世界は神社ではなくあの世なのは、神々がこの星を作られた時からの理です。だから修正は堰を切ったように大きな流れを生むのです。

 

ここまで話して勘違いされないように書いておかねばなりません。英霊さん達は誤った存在であり、誰かに正されるべき存在ということではありません。修正との表現からそう思ってはいけないので書きました。

 

正されねばならないのは生きている側の方でしょう。

 

【流れはどこへ?】

循環が正常化されると流れはそれをした者へも相当量向かいます、本来は。ですが、私が個人的な理由でそれを拒否しているために今度はそこで停滞が起こります。これでは本末転倒です。そのため、私を素通りして他者へ流すようにすることでほぼ解消できます。やり方は神と私の間での個人的な方法ですからここでは書きません。

#仏教的に簡潔な表現は可能ですがあえてまわりくどく書いています。ここは神よりのブログなので。

 

自分に還る力と想いをひとつにして、再度行うとさらに強い力となります。この繰り返しがひとりの想いを超えた力に変わります。

 

他者への流れですが、時におせっかいをします。いつかのおたぬき様の件もそうです。

 

a-wi.hatenablog.com

頼まれもしないのに首を突っ込むのはあまり良い事ではないようですけど、その人の学びに悪影響を及ばさない範囲なら黙認される形に私の場合はなっています。勝手にお願いだけするのとは違うのは、言葉は悪いですが上記の貸しがあるからです。

#貸しとは他の人よりも動かねばならない事情程度の意味にとってください。神仏のご恩を思えば、貸しなどという言葉は身の程知らずの極みです。

 

私もきっかけまでで、それで相手の反応を見てやめます。

 

人の想いを乗せて流れはまた別の場を目指していくのです。

 

【己の責務を果たすことが利他である】

英霊さん達が本来渡すはずだったたすきを受け取ること。走り終わった英霊さん達をゆっくり休ませてあげること。己のたすきを次の走者まで勝手にリセットボタンを押さずに運ぶこと。我よしで生きなければそれだけで基本的には果たせるのです。その結果、世界はよりシステム上良いものに近づいて行く。

 

己の責務を放り出して我よしにすれば短期的にはその通りに我よしになることも多いでしょう。それが今の己の段階での学びには必要なことだとしても、その考えが真理のように思うのはやめた方がいいです。また、Xのリポストのようにそれを広める行為には慎重さが求められます。

 

世界がバグだらけになって修正だけで済まずにやむなく新規OSインストールになったとしたら、一番困るのは我よし人間です。我よしができるのは我よしではない者が存在している世界だからという認識がないのですから本当に困ったものです。

 

皆が挑戦できる世界が維持されていくように最低限の務めを果たすことが、皆が幸せになれた道でした。

#もういいやと思ったので過去形にしました。

【さいごに】

物事にはけじめというものが存在します。世界のけじめのために働いている人達がいます。

 

英霊さん(の一部)を(もしかしたら本人が望まない形で)とどめてしまったのだとしたら皆で送ってあちらでいつか一緒に笑いましょう。同じ国を生きたもの同士、尊重しあえる時のために。いつか日本を生きたことを楽しく思い出せるように。

 

そのために、己への誠と他への誠のふたつをもって日本人をやり抜くことが一番大事。ネット根流し誠無し。小さな一歩から皆で始めましょう。

#個人的課題と責務を言い換えたものです。

 

#普段公開前に書いている”その他”の記事はだいたいこうした文章です。伝えるお役目の人がある程度書いた後でないと公開許可が下りません。いろいろ遠慮して新たに書き直したのがいつも公開している記事になります。