ほわほわ神社生活

ほわほわ神社生活

神社が暮らしの中にあるおっさんのちょっとだけ変わった日常です。主に岡山県広島県の神社巡りをしています。神社巡りの記録や神社のことで思うことを書いています。

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神仏への願いと誓約

#今回、主従関係の説明をするのに眷属という言葉を使っていますが、もちろん神仏とご眷属様を模してのものです。

 

私のペットは縁あって他の存在に導かれて私と出会ったのでした。最初は全く飼う気はなかったのですが何故そうなるのか不思議で妹に確認し、別の私と縁を結んだ動物だったことを知りました。

#別の私とは文字通りこの私ではない私のことです。前世というのとはまた少し違うのですけど、まだ細かい説明はその時期でないのでできないのです。

 

縁があるのにあまりにも早い別れとなるなら哀しい😢 主としてかわいがってやらねばと思ってすぐの出来事でした。

 

自分の力で対処できる限界を越えているから頼みは神仏のお力のみ。いつもは神々への”交換条件”の提示はしませんが、今回は己のためにも”流れ”を使おうと決めました。

 

私は自分の人生の目的をほぼ知っています。知っているならあとは実行あるのみ。ですが、この世の人間だから何か言い訳を探してはサボるのです。この世を首にならない絶妙な匙加減で。それは身体の疲れのためも一部ありますが、全く逃げ場の無い人生はさすがにちょっとと躊躇するからなのでした。

 

人生でなすべきことに集中すると心身の激しい疲労が待っています。そこから快復するためにペットの存在は不可欠だと訴えました。ペットではなく主と眷属として傍に置いて役目を与えてほしいことが望みと伝えました。これは寿命の設定変更を含むお願いのために軽く口にはできないことです。

 

元々寿命ではなかったような気が今はしていますが、その時は尽きるとするならばでお願いしました。ですので、寿命の操作は無関係だったかもしれないとしても、私の覚悟は変わりませんし、また変わってはいけません。

 

眷属の存在は、私がこれから己の人生に向き合うのと密接に関係することになります。他の命と結ぶことは、言い訳はその命との関係でもうできないのです。厳しい日々になるとわかっていたから今まで回避していたのをやめるのは少しばかり勇気がいりました。

 

神々に誓ったのは、今の自分からのさらなる変化でした。記事では具体的には書きませんが、どれもこれもキツイものばかりです。何もせずに何でも神様やってくださいではダメなお願いでしたから当然と言えば当然のこと。

これまで、今の自分でいいとカン違いしては生まれて苦しんだことが次の学びへ(この人生の間に)結びつかずに無駄になりますよと、さんざん書いても書いても書いても書いても”今の私好き”な人の数はほとんど変わりません(妹談)。今はそうした人類の時代。だからこそ、生みの苦しみを恐れないことが大きな意味を持つのです。

 

眷属とするお許し(あくまでも伺いの中での反応の解釈です)を得たらあとは対処のお願いが残っています。こちらは病についていつもお世話になっている薬師如来へとなります。

私が幼い頃に病のことで親がお願いをしていた仏様がお薬師様でした。もちろん当時の私が知るはずがありません。少し妙な道を歩み始めてから惹きつけられたのがお薬師様でした。縁あるものはいつか必ず形になって現れるのでしょう😌

 

お薬師様にはいつも病に関するお願いを叶えていただいています。他の方も関係するのでこれも詳細は書けませんけど、はっきりとした形になって御加護に気がつくことができています。

#問題はいつも願われた当人が気がついていないらしいこと。あるいは御加護の不思議さをあまり考えていないように見えること。

 

ペットが眷属となりましたので病気平癒をと泣きながら具体的にお願いしました。薬壺は人にだけ使われるのでしょうか? 動物には使われないのでしょうか? と、とんでもないことをおたずねしました。答えは、関係ないといった感じの反応でした。ならばどうか眷属に対して使ってやってくださいとお願いした答えは、使うというものでした。

 

薬師如来が薬壺を使うということは病気平癒です。ありがたくてありがたくて、涙は頬を伝って流れ落ち続けました。

 

病気を治してくださいだけでは困る点があり、期限を伝えてのお願いなので正直に言えば不安がありました。以前、神様に神社で同様のお願いをしたことがあり、その時には期限前日にそうしてくださったのでした。その体験があっても今回は不安になるほど人間には厳しいものに思えました。

 

神社でおみくじをひきました。違うおみくじを一回ずつひいて大大吉と大吉が出ました。どちらにも共通して書かれていたのは感謝を忘れずにの文。大大吉の方には、人を頼れば良い結果が待っているといった感じでした。交信能力は自身の事については誤りが多くなりますので、そうでないおみくじを試したのでした。泣きながら帰路に。

 

二日ばかり経った頃でしょうか、あまりにも急激な変化が起こり、眷属は一気に快復し始めました。人間には難しいと思えるほどの制約をあっさりとクリアしてしまう如来のお力(菩薩のお二人と十二神将及び配下の夜叉の方々にも)にただただお礼の言葉を口にし続けた夜でした🙇‍♂️

 

神仏のご加護に対して、では何かお礼に奉納しようかと考える方は多いでしょう。お金で寺社の維持に貢献するのは悪い事ではありません。でもそれでは奉納するための金が無い貧乏人はどうすればいいのでしょうか? 答えは簡単です。神仏を笑顔にする人間になればいいのです。ネット根流しをやめるようなネガティブなものを減らすことも大事です。ですが、やめるは元に戻しただけです。前に進んで行くにはもっと前に足をださないといけない。苦難の連続を選んだ人生であっても、その中に放たれる輝きをどれだけ神仏へ届けることができるか。

 

神仏に対しての約束は破ることはできません。破らずに日々歩き続けることは修行そのもの。誰のものでもないその人だけの特別なコース。歩き続けた先にあるものは誰にも見えません。それを確かめに行くのが人生だと思います。

 

年が明けてからこんな日々でした。

 

神社は24時間出入りできるところが殆どだと思います。お寺は山門があるため夜間は入れない所も多いでしょう(神社よりは)。また、お昼であっても檀家以外がおまいりするにはご住職への挨拶無しにうろつくと不審者と思われる場合もあることでしょう。神社なみに自由におまいりできるのが単体で道端等にあるお堂です。

 

お堂の仏像を観ればどなたなのかわかることもありますが古い仏像等でわかりにくくなっている例も。何も書かれていないと判断できないと思います。集落の中にあると近所の方を見かけてたずねてみればわかります。

 

私は薬師堂には暇がある時にはまいるようにしています。西日本だと弘法大師の像が見える大師堂が多いですね。まいりやすい=地元に多くあるお堂なので、絶対にこの仏様でないととの思いが無ければ、まいることでご縁をという形でもいいのではと思います。私には薬師堂が一番だったということです。

 

今回はとことん神仏に甘えました。だから普段は甘えません。頼らないでくれと言われるよりも、たまには頼れと言われるように常にありたいです。三次元存在の最後の意地かもしれません。

 

最後に一言。私みたいな誓約はおススメしません😅 退路を断つからです。

 

追記

人(の生命)には執着しないのですが他の生き物の生命に対してはまだまだ。生命そのものというよりは縁(ムスビ)の面でまだ学ぶことがあるとはっきりわかったのは収穫でした。

 

追記

明日11日は建国記念の日です。