ほわほわ神社生活

ほわほわ神社生活

神社が暮らしの中にあるおっさんのちょっとだけ変わった日常です。主に岡山県広島県の神社巡りをしています。神社巡りの記録や神社のことで思うことを書いています。

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器にはその形に添う使い方がある。

もちろん食事の話ではありません。

 

目次

 

【ある夜の出来事】

若ったある夜のことでした。当時恋愛感情を抱いていた相手のことをぼんやりと考えていました。なぜ惹かれるのかを考えて内面(私が相手の言動から思っていること)が中心になった頃、人間性に強く同一化したいと思っていたようです。

するとある時点で足の先端に鈍い痺れとも疼きともとれるものが発生し、それは足の深い部分(感覚としては骨の中)を通ってゆっくりと身体の上に昇ってきました。そのままにしておくと、腹部辺りまで来た時に指の先端から同じく腕の中心から皮膚まで全てに広がりながら肩へ向けて流れのようなものを感じました。やがて首でひとつになった広がりは頭部まで完全に満たしました😊

 

かすかな疼きのような痺れのようなものに満たされる静かな喜びで呼吸も穏やかで回数も減り、その場にはいない相手と一体となったような気持ちでいました。

 

頭に浮かぶのは陳腐ですが愛の一文字だけでした。

 

そのまま寝てしまったようでしたが、これをもう少し調べてみようと思い、実験を開始しました。

【確認のための実験】

横になって相手を思うとしばらく経ってから、また同じ感覚が出現しました。どうなるのかがわかっていたため、意識で早めることができたのではなかったかと今は思います。

 

さて、愛と思える感覚が満ちた後、肌色率100%動画をあえて観てみました。が、肌色率低めな映像とあまり変わりません? ならばと、意識で肌色率を上げてみました。それでやっと感覚が切り替わりました😅

 

両者の感覚は非常に離れていました。少なくとも大きな差異は感じられました。何度も繰り返し、いわゆる性欲が愛と思う状態を浸食していく様子をじっと眺めました。適当な所で止めてみて、通常時と比較しました。予想通り、ある程度混ぜ合わされた状態が日常に近いことがわかりました。

#この混ざり方は各自違うのが当然でしょうし、ひとりの内でも変化があるから関する問題をややこしくしています。

 

異性に対してだけでなく同性で尊敬できる人物ではどうか? ペットではどうか? 歴史上の人物や創作されたキャラクターではどうか? 様々な場合を試しました。結果、異性のような狭い範囲のものではないある種の普遍性があるようでした🙂

#もちろん、皆が私と同じ状態になるとは思っていません。個人差があるはずです。

【器の特性を無視した使い方は無理がある】

人が性欲と呼ぶそれは器にきちんと付随しています(だそうです 妹談)。ですので熱いうどん食ってるアニメ観て思うも思わないもその器なりの反応。ただそれだけ。いいも悪いも無し。文句があるなら神々に言いなさいということになるかと。イキリまくっても勝ち目は1ピコグラムもありませんけど😑

 

それが嫌なら器捨てればいいのです。でもそれはやってはいけない限られたことのひとつなので、死ぬまで生き続けなさいで終わりですね。三次元で、はるか高次元みたいなことはできないのになぜ無謀な挑戦をするのか?

 

平皿に味噌汁入れたり、徳利にめざし刺したりしないでしょう? この器はこうできているのだなと認めないからおかしなことを考えて無駄に人生を使う。

 

犯罪養護の話ではありませんと一応書いて次へ。

 

【おわりに】

人には器に付随するエネルギーと霊的なエネルギーが、三次元ならではのものに対して共に働いています。そうしたものを一度区別すると、その後は少し楽に利用できるようになります。これは上で書いたことだけでなく、他の事も同様です。ただし、やや比較しにくくなるのでわかりやすい例をあげました。

#霊的なエネルギー=感覚は器を通してになりますから、最初に書いたものも完全に霊的な感覚とは実は違いますけど、次元の制約があるということのようです。

 

否定(特に外部)は何も生みません。認めてからその先があります。今のSNSで”私が思った”を根拠にした否定をするなと繰り返し書いているのは、否定して生きる段階の人に合わせる必要がない段階の人はそうしてはいけないからです。与えられたものをどう使うのかは上から任されています。いつまでも進歩がないのは情けない限りだとわからない。嫌、わかると困るからそうでないふりをするのはさらに情けない。霊的臆病者のつまらない呪いの力のくだらない恐ろしさ😩

 

衣食足りて礼節を知る? 衣食足りて甘えを知るの間違いでは? 

 

社会が悪いの前にしなければならないのは己の追求のみ! 物欲の限りない追求ではありませんよ。

 

己を知らずに得られる自己肯定感など何の役に立つのでしょう? 性欲と区別できる感情=エネルギーくらい簡単なものさえまともにとらえられないとしたら、何をどう肯定できるのか私にはさっぱりわかりません。

 

己の器と中の存在を理解しようとしたら、人生100年くらいじゃ絶対に足りないはずです。他のあらさがしして喜ぶ時間は余分に湧いてくるわけがない。何しにこの世に来たのか探ることの困難さにすぐ音を上げて都合よく怠ける言い訳探しに躍起になるなら、”かわいくて仕方ない私”が全ての責任を自分でとってください😟

#仕組み上必ずそうなりますがサポートする他者がお気の毒で。介護ってこの世だけの問題でなかったのです。今までは守護霊という用語が使われてきましたけど、これからは介護霊の方がいいかもしれない。病や老いでのこの世の介護は問題ではありません。

 

己の器に盛りつけられた料理(人生全ての体験から得た学び)を神仏に自信を持ってお出しできる人が一人でも増えたらいいなと思います😃 叶わぬかもしれない夢のまた夢なのです😥

#手取り足取り少し前までのこの世なら絶対禁忌なことを話しても、自分第一だから都合のいい部分だけ利用しますな現実をさんざん味わってきましたので、正直言いますともう何も期待していません。それだから叶った時に嬉しい夢なのです😌

 

#自分がわかっているからこれだけ言えば相手もわかると思う誤りや驕りが自分にあったわけで、あえて悪いというなら私と相手双方ですね、これは。そして、双方その段階ではなかったというだけの事実なので、悪いという言い方は誤りなのでした。

 

こんな記事を自分の時間を使って読んでもらえることに感謝😌🙏