ほわほわ神社生活

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神社が暮らしの中にあるおっさんのちょっとだけ変わった日常です。主に岡山県広島県の神社巡りをしています。神社巡りの記録や神社のことで思うことを書いています。

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いつでもいつまでも味方

守護霊のことです。

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この世の者が皆目に見えない相方のことを知る必要はありません。同時に、絶対に知ってはならないわけでもありません。

 

肉体は非常に堅固な障壁ですから分からないのが当たり前だと思います。おまけに意識も肉体=自分が当たり前なので、ますます感じにくくなっています。

大半の人にとって空気と変わらぬものを感じとるのは不可能に近いでしょう。

 

これは喜怒哀楽を自由に味わうための配慮です。自分の人生は自分のものですから。

 

自分の人生なのですが……それについて悩みというものが必ずついてまわります。考えなければ一歩も前に進めませんから当然と言えば当然です。

 

そもそもなぜ悩むのか。人生はこの瞬間にも約80億通り存在します。歩めるのはそのうちひとつだけです。思いっきり途中を省略しますが、悩みは自分の人生を認めないことから発します。

 

何らかの意味で成功? しなければダメなんですか? それは他者も自己もあなたを成功ではないと評価をするのを恐れるからではないですか?

 

もし80億人にお前はダメだと言われてもただ一人、正確には補助のメンバーを入れて複数人ダメなあなたを責めない存在がいます。前置きが長過ぎましたがそれが守護霊と言われる存在です。

 

責めないだけでなく、良くないことは全て他者のせいにしたいあなたに剥き出しの憎悪をぶつけられても、受けとめて許してくれる存在です。

 

人は誰か自分を認めてくれる他者はいないのか探しまわります。”青い鳥”のように常にそばにいるのに何を探す必要があるのでしょうか。

 

求めていたものは生まれた時に既に得ていたのだと気がついた時の喜びは己で体験しないと文章では決して伝わりません。ここまで書いてきたことが意味のないことになりますね、まあ流れということで😅

 

これでもいいんだと思えばそれでいいので解放感は素晴らしいです。自己肯定感なんてものは生まれた時から本当は持っています。

 

ここで間違えてほしくないのは、何をやってもいい免罪符を得たのではないということです。こう言わないと、人の話は無視して我良しでいいと極端なことを考える人が出かねませんので。

 

生きている間、裁くことはしなくてよくなります。ただどんなことも受けとめて、サポートを相方に任せて自身は楽しむ。それは実は二人で楽しむということ。風の時代とかスピ関係では言われますね。それは当たり前なのです。

 

我良しの心は弱まっていきます。それは成長している証。階段を上るのもひとりよりふたりで頑張れば辛さも違います。

 

守護霊とコンタクトできないと嘆く前に、この瞬間も励まされていると知ってください。形にはならなくても、繋がりは深まります。

 

守護霊に感謝しますか? しなくてもいいです。でもどうしてもというなら命尽きる時まで生きることです。これ以上の感謝はありませんから。

 

私のサポート、妹は大変みたいだから「もしやめたいと言ってやめられるならそうしていいよ」と言ったことがあります。返事は、それは絶対にない……でした。人として受け取れるこれ以上の贈り物はないです。おっさんがどれだけ泣いたか。

 

満たされてほしい。百年後に人類の様子が変わるか一億年後に変わるかわかりませんが、でもこれは必ずそうなることです。

 

追記

自分達がそうであるように全ての人がそうであると認めた時、見えない人のことも思えるようになっているはずなのです。そうなれば他者へのネガティブな思いが湧いても長くは続かない。空虚な理想論に思えますか? 答えはいつの日か必ず出ます。なぜならすでに出そうとしているからです。単に時間の問題なのです。