ほわほわ神社生活

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神社が暮らしの中にあるおっさんのちょっとだけ変わった日常です。主に岡山県広島県の神社巡りをしています。神社巡りの記録や神社のことで思うことを書いています。

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学び方の違いについて

伝統宗教に属する方とスピリチュアルな方の学びの違いははっきりしています。今日はそれについての話です。神仏に関する話になるので、伝統宗教は日本のものを念頭にお願いします。この記事は目次を使いません。

 

伝統宗教は次の世代がいないと教えが絶えてしまいますから、必然的に新たに入ってくる者へ一人前になるまで指導、教育する仕組みが整えられています。

 

一方、我が国で神仏に関する範囲のスピリチュアル(系)を指導し受け継がせる仕組みはありません。ありませんと書きましたけど、一応は存在します。ただし、役目の人が伝える仕事だった場合くらいかと思います。

 

両者の違いは極めてわかりやすい理由によります。役割の違いです。

 

伝統宗教では、ここまでは誰にでも教えることができる学び、また学ぶ側もそこまでは身に着けることができる範囲を収めたことで一人前とみなされています。人として理解できる、到達できる頂点を100とした場合に50くらいまでの基礎、基本をもって、さらなる先を目指していく。

 

この利点は一定水準に達した宗教者の数を増やせることです。その中から50よりも上に到達した者が現れ、それを元に次の者がさらに上への道を切り開いていく。全体としての働きを重視された方法です。大きな問題は短い人の一生で50よりさらに奥へ進むことが非常に困難なこと。日々の雑事に追われてしまうと時間切れ強制終了になるのです。

 

スピリチュアルな方の場合はこれとは全く別の方法になります。

 

この人達は神仏のこの世での手足となって動き回ることが役目。このために、知識と能力は神仏が必要と判断したものだけが与えられます。それは1から順に並んでいるのではないのです。これが最も重要な点です。

 

例えば、1,2,3,6,9,12,15,17,19,25,36,49,67,84,89,96のように。

 

私が適当に並べた数字ですから、この通りの人はいないと思います。大事なことは、基礎基本や応用といった区別が無いこと。飛び飛びのため、抜けた箇所を推測することが難しく、自分が知っている箇所を文字通り並べるだけになることです。

#伝統宗教とスピリチュアルで位置を示すものは全く同一というわけではないようです。

 

本人も己に備わったそれを誰かに詳しく説明することは、体験談の形をとる以外では少し上で書いたこともあって、上手くできないはずです。伝統宗教が教えを説くことができるのとは正反対です。伝統宗教の側の人達から見れば、スピリチュアルの人の知識の基礎部分の抜け落ちは、こんなことも知らないのかとの驚きとなるのでしょう。

 

スピリチュアルの人にとっては、自分の役目に不要なものは、他者が必要なものでも不要になります。自分独りのお役目であり、誰かに自分が渡すものではありません。許しが無いと、以前の記事で書いた神の分身間でも他言無用とされるくらい徹底したものだそうです。神仏が必要な時に次の者を選ばれますから、自分に権限はないのです。初めに書いた受け継ぐことができるのは次の役目の人だった例なのだと思います(検証は不可能です)。

 

人から人への伝統宗教と、神仏から限定された人へのスピリチュアルは相補的な関係になります。どちらも神仏の役目を果たしていくのですから、ここに争いは不要です。

#望まれていないということです。

上の吹き出し”和”が入るのを願っています😌🙏